東日本大震災から10年 キーパーソンに聞く【みんなの防災】

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「報道部畑中デスクの独り言」(第237回)

ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、発災から10年となる東日本大震災について---

南三陸町・防災対策庁舎(2015年9月撮影)

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2011年3月11日の東日本大震災から10年となりました。

被災地の状況については小欄でもお伝えして来ましたが、あれから10年。小欄では数多の被災地のうち、宮城県内で復興に努めるキーパーソンの話をお伝えして行きます。

まずは気仙沼市、震災後「定点観測」的に街の様子を見て来ました。最近訪れたのは2018年。市街地には東北新幹線で岩手県の一ノ関駅で下車、その後レンタカーで通称「気仙沼街道」を1時間以上東に進み、到着していました。これまで見た沿岸地域は土地のかさ上げが進められ、ダンプカーによって土ぼこりが舞い上がっていました。

いまは三陸沿岸道路が宮城県内で全線開通し、アクセスの選択肢も広がって来ました。内湾地区では商業・観光施設が稼働、津波で第18共徳丸が打ち上げられた鹿折地区も道路が整備されました。これらの地区を見渡せる復興祈念公園、三陸沿岸道路をつなぐ横断橋も完成……街の姿がはっきりして来たようです。

復興祈念公園 上空から見た気仙沼市(気仙沼商工会議所 提供)

復興祈念公園 上空から見た気仙沼市(気仙沼商工会議所 提供)

「10年経っちゃったな……こんなにかかるとは思っていなかった。10年もお待たせしてようやく街ができ上がって来た」

オンラインのインタビューで心境を語ったのは、地元経済界のトップ、気仙沼商工会議所の菅原昭彦会頭です。3年前にお会いしたときに比べると、その口ぶりには明るさが感じられました。震災10年を意識して集中的な投資が行われ、「見違えるようにいろいろなものができて行って、街の姿が変わって来ている」と語ります。

基礎工事まではなかなか形を見せない高層ビルが、ひとたび基礎が固まるとニョキニョキと姿を見せるときの状況に似ているのかも知れません。特に2年前の2019年、大島を結ぶ気仙沼大島大橋が完成し、街の雰囲気がガラッと変わりました。「こんなにお客さんが来るんだ」と驚きを隠せなかったそうです。

人との交流のあり方も、ここへ来て変化が出ています。菅原会頭は「ある時期から対等な関係で、『気仙沼に来ると楽しそうだから、何かやってみよう』という付き合いに変わって来た」と言います。被災地が新たなステージに移ったことを示す現象と言えるでしょう。

「ワクワク感が出て来たのも10年間の変化か。大きな財産になって行くのではないか」と期待を寄せます。その上で、「復旧・復興と掛け声でできて来た時代は終わった。10年経ったから終わりという話ではまったくない。ハードも含めて自分たちの街が継続して維持できるような街づくりを、これからも進めて行きたい」と気を引き締めました。

内湾地区 商業・観光施設も稼働し、復興の街が目に見える形になって来た(気仙沼商工会議所 提供)

内湾地区 商業・観光施設も稼働し、復興の街が目に見える形になって来た(気仙沼商工会議所 提供)

一方で10年経っても残る不安はあります。それが2021年2月13日深夜に襲った地震で露呈しました。幸い津波は観測されず、気仙沼市内も震度4で大きな被害はありませんでした。

「いまがすごく危ない状態」と菅原会頭は話します。以前、小欄でもお伝えしましたが、現在は防潮堤を含めた防災設備が中途半端にでき上がっている状況で、防御できていないところから水が入ると、どういう動きをするのか予測されていないそうです。「ここ1年はこういう状態が続くと思う」と、胸の内を明かしていました。

続いて、南三陸町。住宅は高台に移転し、南三陸病院、戸倉小学校、卸売市場、南三陸町役場などが再建。昨年(2020年)10月には復興祈念公園が開園し、地域おこしとして「南三陸ワイナリー」がオープン、栽培したブドウを使ったワインの販売を開始しました。新たな産業への挑戦を始めています。

そして、震災の体験を伝える「震災伝承館」が約1年後、オープンをひかえます。「南三陸さんさん商店街」は年間約60万人の人出が見込まれ、にぎわいを呈しているということです。

「順調に来たと捉えられるかも知れないが、大変な紆余曲折、反省もあった。悩み苦しみぬいた結果が復興につながって来た」

南三陸町の佐藤仁町長は日本記者クラブ主催によるオンライン記者会見で、この10年を振り返りました。住宅の高台移転ひとつをとっても、埋蔵文化財が出土して調査に時間がかかったこと、相続登記を確認しながら、山林の権利者からハンコをもらうため、職員が全国を1年以上奔走したことを挙げていました。

内湾地区の商業施設 新型コロナ前はかなりのにぎわいを見せた(気仙沼商工会議所 提供)

内湾地区の商業施設(気仙沼商工会議所 提供)

私は6年前に志津川地区を訪れ、震災の象徴的な存在である防災対策庁舎の前に立ったことがあります。周囲の土地はかさ上げが進み、その高さはざっと見積もって10m。庁舎を囲む「城壁」のように感じましたが、現地の津波は15mに及んだということで、これほどの“かさ上げの山”を築かないと津波には勝てないというわけです。

この庁舎を震災遺構として残すべきか否か、町民の意見は真っ二つに割れたと言います。「見たくない」「お父さんが最後まで頑張った場所を残して欲しい」……難しい判断を強いられました。宮城県で庁舎を20年間所有する提案がなされ、パブリック・コメントで60%が県有化に賛成という結果に……一時県有化という決断が下されました。

しかし、10年が経って県有化の期間が折り返し点を迎えました。10年後にどうするのか、町民との議論は今後も続きます。

さらに三陸地域の産業と言えば、漁業、水産業です。南三陸町では養殖漁業、カキ、わかめ、ホタテなどの水揚げが過去最高を記録する一方で、自然の変化による影響も出ています。秋サケについては最近海面水温が高く、回遊する量が落ちていて厳しい状況だということで、新たな悩みの種になっています。

三陸沿岸道路に美しい横断橋が完成した(気仙沼商工会議所 提供)

三陸沿岸道路に美しい横断橋が完成した(気仙沼商工会議所 提供)

それぞれの地域でさまざまな事情がありますが、一方で共通するのは新型コロナウイルスの影響……被災地も無縁ではありません。

気仙沼商工会議所の菅原会頭によると、食に関するものが多い地元の産業は昨年(2020年)、一昨年ぐらいでようやく本格的になりました。しかし、工場などを再建し、グループ補助金の一部返済が始まるころにコロナが襲い、二重ローン、三重ローンに陥っているところが多いということです。

飲食業の売上は50%以下に激減している他、水産加工業、観光業も軒並み減少。東北は感染者が少ないにもかかわらず、マインドが冷えている現状もあります。

気仙沼にとっては、「今年、ビッグイヤーになる予定だった」と語ります。震災10年の行事、横断橋開通、復興祈念公園の開園、そして2021年5月開始予定のNHK連続テレビ小説『おかえりモネ』の舞台にもなることから、町全体が盛り上がり始めていたところだけに、出鼻をくじかれた形となりました。

南三陸町でもコロナの影響は同様です。観光客が減っていることの他に、人との交流がなくなったことが挙げられました。佐藤町長は、「人との交流が震災復興の後押しになった。(コロナは)災害の1つだと思っている」と語っています。

日本記者クラブ主催のオンライン記者会見に臨む南三陸町・佐藤仁町長(2月24日撮影)

日本記者クラブ主催のオンライン記者会見に臨む南三陸町・佐藤仁町長(2月24日撮影)

そしてもう1つ、菅原会頭、佐藤町長ともに掲げる課題として「行政の縦割り」と口を揃えます。菅原会頭は「震災から立ち上がるときに、いちばん足かせになったのは政治の縦割り、連携不足だった」と振り返ります。そして10年経ったいま、新型コロナウイルスへの対応も「まったく変わっていない。Go To キャンペーンの縦割りは“見事”だ」と皮肉交じりに語りました。

佐藤町長は防災省の新設を挙げました。現在の復興庁は各省庁からの派遣で、「経験は残らない」と語ります。その上で「即応型の組織が必要」と訴えました。これも縦割り行政の弊害から来る発言と言えます。

東日本大震災、新型コロナウイルス感染拡大……この間に未曽有の豪雨災害もありました。この10年の間に政権も変わりました。しかし、危機管理の面でこの国のカタチはまったく変わっていないように感じます。

菅政権は「縦割り行政の打破」を掲げていますが、はたして日本人というのは学習能力のない人種なのか、あるいは体質なのか、このような縦割りが心地よいと感じる人種なのか……東日本大震災から10年、新型コロナウイルス感染拡大を思うとき、複雑な気持ちを禁じ得ないところです。(了)

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