黒木瞳がパーソナリティを務めるニッポン放送「あさナビ」(11月22日放送)に清元節・浄瑠璃方の清元美寿太夫が出演。浄瑠璃とは何か、また太夫になった経緯について語った。
黒木瞳が、さまざまなジャンルの“プロフェッショナル”に朝の活力になる話を訊く「あさナビ」。11月22日(月)~11月26日(金)のゲストは清元節・浄瑠璃方の清元美寿太夫。1日目は、浄瑠璃とは、また太夫になった経緯について---
黒木)清元さんは2021年6月、日本の音楽文化の発展、向上に貢献した個人または団体に贈られる第51回「ENEOS音楽賞邦楽部門」を受賞されました。おめでとうございます。
清元)ありがとうございます。とても感激しております。
黒木)清元節というのは200年の歴史があると伺っていますけれども、浄瑠璃を詳しく知らないので教えていただけますでしょうか?
清元)簡単に申し上げますが、まず浄瑠璃という名前、文楽の義太夫さんなどと同じスタートをしたのですけれども常磐津と清元の2つに分かれたわけです。そして三味線も太棹、中棹、細棹とありまして、清元はちょうど中間の中棹になります。浄瑠璃というのは語って物語をわかりやすくする、それから浄瑠璃のなかでも三味線の音とメロディーをきれいに聴かせる、歌も、語って物語を説明する部分と声を聴かせる部分があります。
黒木)そうしますと歌舞伎とか、人形浄瑠璃とかもありますよね。そのなかでも、三味線と語り部でしょうか、音楽でしょうか、そういったものを担当するというのが浄瑠璃ですか?
清元)それにはお三味線をお弾きになる方と、私たち歌は太夫とつきますが、両方が演奏をするということで1つのチームですね。それで成り立っております。
黒木)清元さんは太夫でいらっしゃるということで、語るまたは歌うということを担当なさっているということですね。
清元)題目によって語るものと歌うものに大きく分かれます。
黒木)もともとはお三味線にご興味を持たれて、この世界に入られたと伺ったのですが、そうなのですか?
清元)私は両親が、父が太夫、歌方で、母が三味線弾き、三味線のプロです。その両親のもとで私は生まれました。たまたま兄が三味線を希望し、私はある素晴らしい人の歌を聴いて太夫、歌方になろうと思いました。
黒木)どちらもできなくてはいけないのですか?
清元)修行中は三味線の人は三味線一本で子飼いからやらないと、なかなか難しいですね。ですからお三味線の人は小さいときから、歌の人よりもっと前からおやりになっている方もいます。歌の人は私も含めて男性は、子どものときには女の子のような声が出ても、変声期があるのです。その人によって。私の場合は変声期があったので大変苦労しました。やはり三味線の人は歌の人より早めになさっています。簡単にできませんね。
黒木)難しいものなのですよね。
清元)難しいですね。「見て、聴いて、覚える」という世界ですので。歌も「こう出すのだよ、ああ出すのだよ」と言われても、それぞれ顔が違うのと一緒で声帯もみんな違いますから、声の出し方とか、息のタイミングの取り方とかが違うのです。ですから、最終的には自分で自分を見つめて、勉強して行くしかないということです。
黒木)伝統文化ですから、素晴らしいことをもう何十年もやっていらっしゃるのですよね。
清元)私がお名前をいただいて、今年(2021年)で61年になります。
清元美寿太夫(きよもと・よしじゅだゆう)/ 清元節・浄瑠璃方
■1943年・昭和18年、東京都生まれ。
■父は清元若寿太夫。母は清元延若福。兄は初代清元榮三(人間国宝:故人)。
■1956年、六代目清元延寿太夫、三代目清元栄次郎(後の初代清元栄寿郎)に師事。
■1959年、美寿太夫の名を許される。新橋演舞場「西川流鯉風会」の「梅川」他で初舞台。歌舞伎座「昔噺桃太郎」で歌舞伎の初舞台。
■1977年、京都南座「夕顔棚」で初めて歌舞伎の立語りを勤める。
■1986年、LPアルバム「清元榮三・(・)清元美寿太夫花吟集」を発表。
■2014年、文化庁芸術祭賞(音楽部門)大賞を受賞。2014年、重要無形文化財清元節保持者として認定。清元協会理事に就任。2014年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
■この他、1969年ごろから宮薗節を宮薗千之に師事、宮薗千弘太夫を名乗る。1983年ごろから地唄を富崎冨美代に師事、富柳美寿を名乗る。
■2021年、「第51回ENEOS音楽賞・邦楽部門」を受賞。
番組情報
毎朝、さまざまなジャンルのプロフェッショナルをお迎えして、朝の活力になるお話をうかがっていく「あさナビ」。ナビゲーター:黒木瞳