「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
震度5強の地震が起きただけで、いろいろなものがマヒしてしまう東京都心。いつの日かやってくるに違いない震度7の揺れに襲われたとき、大都市で暮らす1人1人は、何をどうしたらいいのか、乗り越えていく心積もりはできているでしょうか。いまから26年前の、阪神・淡路大震災で神戸の老舗駅弁屋さんは、大きな被害の前に途方に暮れたなかから、どのように動き出していったのか? トップの方に伺いました。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第31弾・淡路屋編(第5回/全7回)
京阪神のスピーディな移動に大きな役割を果たしている「新快速」。昭和45(1970)年の運行開始から去年(2020年)で50年を迎えました。京都~西明石間で始まった運行区間も、いまは東(北)の敦賀から西は上郡・播州赤穂まで広がりました。なかでも平成7(1995)年に登場した223系電車は阪神・淡路大震災からの復興を支え、いまも新快速の主力として活躍しています。
神戸で駅弁を手掛ける、明治36(1903)年創業の株式会社淡路屋は、平成4(1992)年、長年拠点を置いていた神戸駅前を離れ、東灘区の魚崎に新社屋を建て、移転しました。それから約3年、新しい社屋を阪神・淡路大震災が襲いました。このとき、老舗駅弁店は何をどう考え、どのように動いたのか? 「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第31弾・淡路屋編、寺本督代表取締役のインタビュー、今回は震災のお話をたっぷりと伺いました。
●途方に暮れるしかなかった、震災の甚大な被害
―平成7(1995)年1月17日の阪神・淡路大震災、このとき淡路屋は、どのような状況だったんでしょうか?
寺本:私も震災直後、すぐに本社に駆けつけました。社内のあらゆるものがひっくり返ったり、潰れたりしましたが、幸い本社と工場は無事でした。それから、売店などがある三宮まで二輪車を使って状況を確認しに行き、その被害の大きさに驚きました。震災当日は食材が余っていましたので、神戸市内の避難所に届け、喜んでいただきました。地震の発生から3日ほどは忙しかったのですが、4日目にしてすることがなくなりました。
―震災では、ライフラインが止まり、鉄道も至るところで大きな被害を受けてしまいました。
寺本:水道・電気・ガスのいずれもストップ。そのなかで電気の復旧がいちばん早く、仮設の電線によって、約1週間で再び通りましたが、ガスと水道は来る気配すらありませんでした。山陽新幹線は西宮市内で橋が落ちて、在来線も至るところで壊れていて、もう3年くらいは列車が来ないのではないかと感じるほどでした。これからどうやって首をつないでいこうか、途方に暮れるしかありませんでした。
●中内功さんの「ひとこと」で目が覚めた!
―そのなかで、再び弁当を作りだすことになったきっかけは?
寺本:震災後も応急営業していたダイエーで中内功さん(当時会長兼社長、故人)にたまたまお会いしました。「君のところは大丈夫だったか?」と心配して下さったので、「建物は潰れていないのですが、ガスも水道も来ないので、まったくお手上げです」と答えました。すると、中内さんは「お前、アホか! 水道やガスなんか来るか! 自分で何とかせい!」と。「えっ、ガスや水道を自分で工事するんですか?」と返すと、「そんなもん自分で考えろ!」とおっしゃったのです。
―中内さんは震災のとき、神戸で陣頭指揮を執られていたんですよね。
寺本:茫然自失状態だった私も、一気に目が覚めました。急いでプロパンガスを配管して、水はアサヒビールさんに手配していただけることになりました。ただ、西宮工場は被災していましたので、吹田工場が東京からタンクローリーを手配して、毎日8時間かけて神戸へ水を運んで下さいました。そしてようやく、地震発生から17日目にして弁当の製造を再開できることになったんです。
●震災復興を弁当作りで支えた「淡路屋」
―どのような弁当を作られたんですか?
寺本:神戸市内の避難所の給食を名古屋から運んでいる状況でしたので、それを弊社が受け継ぎました。さらに、インフラ復旧工事のために、全国から集まっている電力会社やガス会社といった皆さんの食事も難儀していましたので、毎日日替わりの1つのメニューに絞り込むことで、1日最大3万食の食事を提供していきました。当時の日本は大都市の大地震に対するノウハウがほとんどありませんでした。みんなが手探りでやるべきことを見つけていったのが「震災後」ですね。
―阪神・淡路大震災は、京王百貨店新宿店で行われている「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」の期間中でもあったんですよね?
寺本:駅弁大会のスタッフは大きな荷物を背負い、神戸から西宮北口駅まで十数キロを歩いて行きました。そこから阪急と近鉄、名古屋から新幹線を乗り継いで、数日遅れで、何とか東京にたどり着いたと聞いています。正直、神戸の本社は駅弁大会のスタッフを気にかける余裕はまったくなくて、明日食べるものもおぼつかない状態でした。東京へ行ったスタッフは、皆さんが心配して下さった上に、お風呂にも入ることができて“天国”だったと、25年あまり経ったいまでは、笑って話すことができますね。
復興を遂げた神戸の街並みを思い浮かべていただく駅弁なら、「神戸デリカ」(920円)。神戸らしい、和洋折衷の幕の内弁当です。今年(2021年)11月からリニューアルされて、地元のイラストレーター・都あきこさんがデザインしたパッケージとなりました。デザインは、“神戸をお散歩する~おしゃれでハイカラな神戸~”がコンセプトとのこと。神戸の街やシンボルを青・赤・緑をメインの色として、トリコロールカラーで彩ったと言います。
【おしながき】
・白飯 梅干し ごま
・焼き鰆
・かまぼこ
・玉子焼き
・ハンバーグ 茹でブロッコリー
・スコッチエッグ ウインナー 鶏つくね
・南瓜入りコロッケ 焼きビーフン
・牛肉煮 こんにゃく ごぼうと人参のきんぴら
・煮物(里芋、人参、れんこん、南瓜、絹さや)
神戸の中心部をピクニック気分で散歩したり、駅弁を食べるイメージを描いたというパッケージを開けると、焼き魚は鰆、蒲鉾、玉子焼きが入った、幕の内・三種の神器の基本に忠実な幕の内弁当が現れます。おかずは、ハンバーグやスコッチエッグといった洋風のものが目を引く一方、煮物もしっかり入っています。これに牛肉煮や焼きビーフンが加わって、神戸ならではの幕の内に仕上げています。
現在の「新快速」は、223系電車に続いて、新世代の225系電車も主力となっています。阪神・淡路大震災では、阪神間の鉄道はいずれも寸断されましたが、東海道・山陽本線(JR神戸線)が4月1日、山陽新幹線が4月8日と、3ヵ月以内で復旧を果たしました。そして、そのノウハウは東日本大震災に活かされていったわけです。次回は、淡路屋の駅弁づくりについて、より深く伺っていきます。
(参考)兵庫県ホームページほか
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/