福知山線の小さな駅・生瀬で、なぜ「駅弁」が成立したのか? ~神戸駅弁・淡路屋

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【ライター望月の駅弁膝栗毛】
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。

いま、駅弁が販売されている駅は大きく3つあります。1つ目は、新幹線・特急の停車駅。2つ目は列車の始発駅。3つ目は温泉の最寄り駅です。しかし、昔の時刻表を開きますと、いまでは考えられないような駅にも「弁」のマークが記されています。兵庫県の福知山線・生瀬駅もその1つ。この駅にはどんな歴史があって、どんな駅弁が販売されていたのか。駅弁屋さんのトップと一緒に、歴史を紐解いてまいります。

289系電車・特急「こうのとり」、福知山線・宝塚~生瀬間

289系電車・特急「こうのとり」、福知山線・宝塚~生瀬間

「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第31弾・淡路屋編(第2回/全7回)

福知山線の特急「こうのとり」が、歌劇のまち・宝塚をあとにして、武庫川の鉄橋を渡り、丹波へと続く山間へと分け入って行きます。鉄橋を渡った先にある「生瀬(なまぜ)駅」は、兵庫県西宮市にあって、日中は毎時4本程度の区間快速と普通列車が停まり、特急や丹波路快速は通過する小さな駅です。しかし、この生瀬、戦前までは駅弁販売駅でした。販売していたのは、いまは神戸を拠点に幅広く駅弁を手掛ける「株式会社淡路屋」です。

ライター望月の駅弁膝栗毛・恒例企画「駅弁屋さんの厨房ですよ!」の第31弾は、株式会社淡路屋の5代目、寺本督代表取締役にお話を伺いました。淡路屋のルーツから、神戸への移転。そして、数々のユニークな駅弁の背景にあるものや阪神・淡路大震災の体験、コロナ禍までたっぷりお話いただきましたものを、6回に分けてご紹介します。最初は淡路屋の草創期、生瀬時代のエピソードです。

株式会社淡路屋・寺本督代表取締役、阪鶴鉄道(当時)のレールと共に

株式会社淡路屋・寺本督代表取締役、阪鶴鉄道(当時)のレールと共に

寺本督(てらもと・ただし)

昭和36(1961)年5月4日生まれの60歳。兵庫県神戸市出身。東京都内の大学院を卒業後、淡路屋入社。平成16(2004)年10月、先代のお父様から受け継いで5代目代表取締役社長に就任。多忙な職務の合間を縫い、ひたすら旅に出て、常にインプットを怠らない。

いまの曽根崎新地

いまの曽根崎新地

●曽根崎新地の料亭から始まった「淡路屋」!

―淡路屋のルーツを教えてください。

寺本:明治初め、大阪・曽根崎新地でやっていた料亭「淡宇(あわう)」がルーツです。屋号は、当主の名前・淡路屋宇兵衛の頭文字をとって「淡宇」としていたのではないかと思います。寺本家は、江戸時代、淡路島から大阪に出てきたと言われていますが、残念ながら確かな文献はありません。実際、屋号には、出身地とは関係なく旧国名を付けるケースが多々ありましたので、淡路島発祥とは言い切れないのが正直なところです。

―明治36(1903)年、鉄道の構内営業に参入したきっかけを教えてください。

寺本:明治時代、寺本家があった堂島で、大阪駅の構内営業・水了軒の当時の経営者の方と、家が隣どうしで親戚関係にありました。そのなかで、鉄道の構内営業をやってみないかと勧められたと言います。しかし、官設鉄道(現・東海道本線)は水了軒がやっていたので、私鉄の阪鶴(はんかく)鉄道(現・福知山線)の車内販売に参入しました。阪鶴鉄道は、神崎(現・尼崎)から大阪駅まで官設鉄道に乗り入れていて、大阪駅拠点で営業することができたんです。

いまの生瀬駅

いまの生瀬駅

●阪鶴鉄道の構内営業から、福知山線・生瀬駅へ!

―その後、池田駅(現・川西池田)を経て、生瀬駅での構内営業を始めたそうですね?

寺本:最初は大阪から弁当を積み込んでいたと思われますが、やりにくかったのかも知れません。そこで阪鶴鉄道の本社があった池田に移って調理場も作りました。しかし、阪鶴鉄道が国有化されると、池田駅での商売も厳しくなってきてしまいました。そこで生瀬(なまぜ)駅へ移転することになりました。生瀬は、開業当初の駅名が「有馬口」でして、大阪の奥座敷・有馬温泉への玄関口としてにぎわい、客待ちの人力車が30~40台いる駅だったんです。

―いまの生瀬駅は特急や快速も停まりませんが、どうして駅弁が成立したのでしょうか?

寺本:当時は生瀬が注目されていました。阪鶴鉄道の旧経営陣は国有化後、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)を設立、有馬への鉄道を計画する上で、生瀬経由を考えていたようです。曽祖父から聞いた話では、福知山線の列車も、生瀬で蒸気機関車の給水・給炭を行うため、長く停まったと言います。福知山線には篠山(ささやま)の陸軍、舞鶴の海軍へ輸送を担う大事な役割があり、生瀬停車中は弁当がよく売れたと言います。

JR福知山線廃線敷(旧線跡) いまでは武庫川に沿った生瀬~武田尾間の約4.7kmが渓谷美を楽しめるハイキングコースとなっている

JR福知山線廃線敷(旧線跡) いまでは武庫川に沿った生瀬~武田尾間の約4.7kmが渓谷美を楽しめるハイキングコースとなっている

●明治時代からユニークな淡路屋! 大人気の予約制弁当

―でも、実際には、有馬温泉への鉄道は、三田(さんだ)駅からの分岐となりました。

寺本:生瀬から有馬温泉の間は風光明媚で人気がありましたが、「七曲(ななまがり)」と言われ、人力車を犬に引かせたと伝わるほど険しい道でした。鉄道を敷くことは叶わず、三田から有馬鉄道(のちに国有化、戦時中に休止)が開業し、福知山線の列車の給水・給炭所も三田に移されたと言います。武庫川で獲れる鮎を使った魚形の折に入った「鮎寿司」が、明治44(1911)年以来の名物駅弁でしたが、生瀬ではあまり駅弁が売れなくなりました。

―ただ、少しでも駅弁が売れるように工夫はされていたんでしょうね?

寺本:弊社の資料によれば、明治39(1906)年に発売した特殊弁当で日替わりの「淡路屋弁当」(25銭)がありました。神崎(現・尼崎)~篠山(現・篠山口)間で販売員を列車に乗せて、お客様にその日の献立を見せて池田(現・川西池田)と三田まで予約を受け付けます。そして、生瀬駅へ電話して、名物・有馬籠に入れた三段重ねの弁当を積み込んで販売。食後、籠を回収し戻っていました。お客様には、大変好評をいただいていたと言います。

柿の葉寿司

柿の葉寿司

生瀬駅で構内営業をしていた時代、武庫川の鮎を使った「鮎寿司」が名物だった淡路屋。残念ながらいま、鮎寿司の販売はありませんが、創業時からの「寿司へのこだわり」を惜しみなく注いだという新作駅弁が、今年(2021年)11月20日に登場しました。その名も、ズバリ「柿の葉寿司」(1200円)。枡形の折箱に載せられた掛け紙には、柿の木と猿の絵が描かれていて、まるでむかし話の世界のような懐かしい雰囲気を感じさせてくれます。

【おしながき】
・鯖寿司(4カン)
・鮭寿司(4カン)

柿の葉寿司

柿の葉寿司

割り箸の必要もなく、お手拭きでサッと手を拭いて、柿の葉を剥けばフワッと漂う酢の香りに食欲をそそられ、パクリとイケてしまう「柿の葉寿司」。淡路屋によると、以前から「気軽に食べられるお寿司を置いて欲しい」との要望が多く寄せられていたのだそう。そこで、約1年半の研究・開発期間を経て、ようやく完成したと言います。生瀬から武田尾にかけて福知山線(旧線)の廃線敷ウォーキングのお供にも、ちょうどよさそうですね。

289系電車・特急「こうのとり」、福知山線・生瀬~宝塚間

289系電車・特急「こうのとり」、福知山線・生瀬~宝塚間

2020年の大河ドラマ以降、福知山ゆかりの明智光秀ラッピングが施された289系電車が、特急「こうのとり」として新大阪を目指します。淡路屋は、明治43(1910)年の山陰本線・園部~綾部間開業に伴って、園部にも支店を出しました。寺本家による経営は、昭和20(1945)年まで続いたそうですが、いまは屋号はそのままに別の方が継承されているそう。この辺りの詳しい話は、次回改めて伺っていくことにいたしましょう。

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

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