新天地へ……野口聡一宇宙飛行士のJAXA退職会見
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「報道部畑中デスクの独り言」(第292回)
ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、宇宙飛行士・野口聡一氏のJAXA退職会見について---
「功遂げ身を退くは天の道なり」
中国の思想家、老子の「道徳経」の一節。「1つのことを成し遂げたら、次の人のために身を引いていくのが正しいやり方である」という意味です。
政界、経済界、スポーツ界など、その世界を極めた人の「引き際」というものを何人も見てきましたが、そのたびに引き際のタイミングの難しさも感じました。今回の人ははたしてどうでしょうか? その人は冒頭の一節が、引き際のきっかけになったと言います。
日本人宇宙飛行士の野口聡一さんが、所属先のJAXA=宇宙航空研究開発機構を今月(5月)いっぱいで退職することになり、5月25日午後、記者会見が開かれました。東京・御茶ノ水のソラシティ、JAXA東京事務所は地下1階にあります。
通常の記者会見はそこで開かれますが、今回は同じビルの2階にある一回り広めの「カンファレンスセンター」で実施されました。新型コロナウイルス感染は収まってきてはいるものの、記者席の間隔が一定程度あけられての開催でした。
記者会見場に姿を見せた野口さんはスーツ姿。口を真一文字に結び、そこには1つの決意が感じられました。
「あっという間の26年だった」と語る野口さん。「3回目のミッションを終えたころから、そろそろ後輩の宇宙飛行士、これから選抜される新人の宇宙飛行士たちに道を譲りたいと考えるようになった」と退職の理由を語りました。今後については研究機関などを中心に「一民間人の立場として、宇宙に関わっていきたい」と話します。
野口さんは3回もの宇宙飛行を経験しています。最初は2005年、アメリカのスペースシャトル「ディスカバリー」で、2回目は2009年にロシアのソユーズ宇宙船で、そして、3回目は2020年、アメリカ「スペースX」の民間宇宙船「クルードラゴン」で宇宙に向かいました。
日本人宇宙飛行士でこの3つの宇宙船に搭乗した人物は現在、野口さん1人です。うち2回は宇宙長期滞在を経験しています。滞在中には山崎直子さん(2回目)、星出彰彦さん(3回目)を国際宇宙ステーションで迎え、日本人宇宙飛行士の同時滞在を実現しました。
JAXAによると、野口さんの通算宇宙滞在時間は344日9時間34分で、日本人では若田光一宇宙飛行士に次いで2位。国際宇宙ステーションの通算滞在時間は335日17時間56分で、日本人宇宙飛行士では最長。さらに船外活動の合計時間は27時間1分で、星出彰彦宇宙飛行士に次いで2位の実績を誇ります。
ただ、野口さんの宇宙飛行は決して順風満帆なものではありませんでした。私が宇宙開発関連の取材を始めるきっかけとなったのは2005年、野口さんが初めて宇宙飛行に臨んだときです。野口さんは1996年に、当時のNASDA(宇宙開発事業団)より宇宙飛行士候補者に選定され、2001年には国際宇宙ステーション組み立てのため、スペースシャトルの搭乗が決まりました。
しかし、その2年後、スペースシャトル「コロンビア」が帰還直前に空中分解する事故が起こり、原因究明のため、搭乗スケジュールの延期を余儀なくされます。外部燃料タンクの断熱材が剥落し、その破片が左翼前縁部の耐熱タイルを直撃、損傷させたことが原因とされました。
事故からさらに2年が経った2005年にスペースシャトルの飛行が再開され、搭乗する1人が野口さんだったわけです。宇宙飛行士候補者の選定から9年、搭乗任命から4年が経っていました。
事故後初めての飛行は、果たしてうまくいくのか……実はこのときも、外部燃料タンクから断熱材が剥落する現象が確認されました。取材している側も祈る気持ちであったことを思い出します。会見では野口さん自身も「最も印象に残っていること」「最もつらかったこと」として、このときの体験を挙げました。
「同期の人間、仲間7名が亡くなって、そこから私の宇宙飛行士としての使命はずっと、あの7名の見た景色と、伝えたかったことを伝えていく……そのためには何が何でも帰還することが、私の宇宙飛行士としてのテーゼだった」
記者会見のこの日、野口さんはコロンビア号のバッジをつけていました。
「最初に宇宙へスペースシャトルで打ち上がったときに、エンジンが止まって自分のまわりすべてが無重力になった瞬間、窓に広がった地球の姿。まさにそれを見るために宇宙飛行士になった。無重力の世界に包まれて、眼の前に地球がぽっかり浮かんでいる。紛うことなく球体の地球が目の前にあるという感覚は、何年経っても忘れられない光景だと思う」
初飛行はまさに「生と死の隣り合わせ」という覚悟と、感動の体験だったのではないかと察します。その後、スペースシャトルは退役し、現在は「宇宙低軌道」の打ち上げが民間に移譲されつつありますが、それでも打ち上げ、ステーション到着、帰還までは私自身も緊張感をもって取材に当たっていますし、当事者の気持ちはそれ以上ではないかと推察します。
とは言え、民間による宇宙飛行も本格化しつつあり、技術も日進月歩であることもまた事実。野口さんは別の角度から宇宙飛行に関わるのではないか、とは誰しもが思うことです。記者会見でも関心の的となりました。
「野口さんは“レッスンプロ”になるのでしょうか?」
私はこんな質問をしました。実は昨年(2021年)7月、3回目の宇宙飛行から帰還したあとの記者会見で、野口さんは今後の宇宙飛行士のあり方について、月や火星の探査に向けて宇宙実験や宇宙利用のオペレーターを担う業務と、民間人をサポートする業務の二極化が進んでいく……そんな見通しを示していました。そして、その両者をゴルフの「ツアープロ」と「レッスンプロ」に喩えていたのです。私はその発言が頭に残っていました。
「レッスンプロ」という言葉に、野口さんは「あ、なるほど……」と笑みを浮かべます。
「(宇宙は)民間宇宙飛行士、宇宙旅行客が行く場所にどんどんなっていく。そういうところに私も水先案内人的な、それをレッスンプロというのかガイドというのかよくわからないが、そういうところでの活動が続けばいいなとは思っている」……野口さんの回答でした。
やや質問をひねり過ぎたか……反省です。その後、改めて他社から宇宙飛行の可能性について問われ、野口さんは「宇宙に行く機会がもうないとは思っていない。JAXA宇宙飛行士として宇宙に行くことはないだろう。宇宙に民間人の立場で行く可能性は、半々ぐらいかなと勝手に思っている」と回答。宇宙飛行への意欲はいまだ満々と感じました。
会見当初は口を真一文字に結んでいた野口さんですが、会見が始まると柔和な表情になり、持ち前のユーモアも飛び出します。
「私ほどメディアを愛した宇宙飛行士はいなかったであろうと。メディアにも愛されていたと一方的に思っている」
場内から笑いが起きます。さらに野口さんは、報道陣を前にこのように続けました。
「皆さんのカメラの向こう側に、国民の皆さまが見ていただいて、皆さんが書くペンの先に国民の皆さまの情報源があると、常に意識してきた」
これは決してジョークではないと思います。例えば3回目の飛行で、野口さんは管制室との交信の際、節目節目で感謝の意を日本語で添えていました。
「日本の皆さま、クルードラゴン運用初号機、無事にISSにドッキングしました。国際パートナーの一員として、民間宇宙船のドッキング成功に立ち合えてとても幸せです。我々レジリエンスクルーは訓練の間、そして打ち上がったあとも、さまざまな困難な状況に直面しましたが、全集中で乗り切ってきました。これから半年間の宇宙滞在も、皆さんと感動を分かち合いましょう」(2020年11月 クルードラゴン、国際宇宙ステーション到着時)
「ありがとうございました。すばらしい体験でした」(2021年3月 船外活動を終えて)
管制室という“プロとの交信”ですので、必ずしも日本語で話す必要はないのですが、メディアの先に、宇宙開発を支える国民がいるという気持ちを体現していたのでしょう。もちろん、日本語のコメントは我々メディアにとってもありがたいものでした。
3回の宇宙飛行を経て「若干、燃え尽き症候群的なところもあったと思う」と認めながら、「ここからもう1つ新しい場面をつくっていけば、死ぬまでにもう1サイクル回せるんではないか。厳しい民間の世界に出て行って、もう一度もまれてみるという体験をするにはいい時期ではないか」と語る野口さん。現在57歳で、昨年(2021年)12月には東京大学の特任教授にも就任しています。
もちろん、燃え尽きるにはまだ早いと思います。野口さんが挑む人生の新たなステージは、同世代の人々にとっても大きな励みになることでしょう。(了)
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