氷菓でおなじみのフタバ食品は、なぜ「駅弁」を作っていたのか?
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「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
鉄道開業150年に合わせ、さまざまな角度から日本の鉄道文化が掘り下げられています。その草創期から鉄道文化の一翼を担ってきた「駅弁」ですが、近年は昔からの駅弁が、どんどん数を減らしています。そこで今回は鉄道開業150年に合わせて「あの名物駅弁はいま」と題し、懐かしの駅弁にまつわるエピソードを、関係者の方に伺っていきます。第1弾は、栃木県・黒磯駅の「九尾すし」「九尾釜めし」に注目します。
鉄道開業150年・あの名物駅弁はいま(第1弾・黒磯駅「フタバ食品」前編)
東北新幹線「はやぶさ」が、関東から東北へ向かって時速320kmで駆け抜けていきます。いま、東京~仙台間は約1時間半で結ばれていますが、新幹線開業前の在来線特急は、上野~仙台間を4時間15分で運行していました。また、急行列車や客車列車の多くは、電化方式が変わる栃木県北部の東北本線黒磯駅で長時間停車。それゆえ黒磯駅では駅弁文化が大きく栄えました。
黒磯駅・那須塩原駅で、平成17(2005)年まで駅弁を手掛けていたのが、栃木県宇都宮市に本社を置くフタバ食品株式会社です。フタバ食品といえば、おなじみの「サクレ レモン」に代表される氷菓(アイスクリーム)の会社というイメージが強いもの。フタバ食品はなぜ、駅弁をはじめとした鉄道構内営業を手掛けていたのでしょうか。今回は、フタバ食品フードサービス部の月江誠(つきえ・まこと)さんにお話を伺いました。
●戦時中の鉄道省とのつながりが生んだ、鉄道構内営業
―フタバ食品と聞くと、私も小さいころからたくさんアイス(氷菓)をいただいてきましたが、会社設立の経緯を教えていただけますか?
月江:弊社は昭和20(1945)年設立の栃木食糧品工業(栃食)と双葉食品興業の合併でできた会社です。鉄道構内営業は、栃食のほうと関係がありました。創業者の父は、大正13(1924)年から食料品をはじめとしたさまざまな事業を手掛けていました。そのなかで戦時中、陸軍や中島飛行機、鉄道(国鉄)物資部の指定工場として、食料品の製造・販売をしていたんです。戦後はそのつながりを活かして、栃食を設立するに至りました。
―当時はどんなものを作っていましたか?
月江:栃食では最初、地元で獲れる小麦を使ったパン作りから入り、戦前からのご縁で鉄道弘済会食品工場としてアイスキャンデーを製造する冷菓工場を設置したことが、いまの看板商品「サクレ レモン」のような氷菓を作るきっかけとなりました。アイスキャンデーは、宇都宮駅に納めた他、白河、栃木、高崎にも工場を作って各駅の売店にも納めていました。昭和26(1951)年には、乳製品も扱うことができる工場となりました。
●駅そばでの実績が認められて、黒磯駅弁参入!
―「駅弁」に携わるようになったきっかけを教えてください。
月江:その前史として「駅そば」の存在があります。昭和29(1954)年1月、鉄道弘済会の高崎営業所が「駅そば」を営業するに当たって、粉の工場を持っていた弊社で、そばの納入を行うことになりました。これは戦後、宇都宮周辺が高崎鉄道管理局の管内となったことが影響しています。この実績が認められて昭和32(1957)年9月15日、高鉄局の認可を受けて、東北本線・黒磯駅向けの駅弁を製造・販売するようになりました。
―栃食は宇都宮に拠点を置いていたのに、なぜ黒磯駅だったんですか?
月江:もともと、黒磯駅では、駅前の「たばこ屋旅館」さんが駅弁を手掛けていました。しかし、廃業されてしまったため、高崎鉄道管理局から駅そばで繋がりのあった弊社にお声がけいただいて、地元の名士であった髙木弁当さん(現在は営業終了)と一緒に黒磯駅弁に参入することになりました。2社となった背景は、当時の衛生状態を鑑みて、駅弁(食)の安全のため、バックアップ体制を取る必要があったのではないかと思われます。
●黒磯駅が「直流・交流」切り替えの駅となり、駅弁屋さんは大繁盛!
―当時の黒磯は、駅弁がよく売れたでしょうね?
月江:東北本線の電化が進んで、黒磯駅は直流電化と交流電化の境界駅となりました。このため、(当時主流だった)客車列車を牽引する機関車の交換が発生することになって、列車は長く停まるようになり、弊社も24時間営業、立ち売りで駅弁を販売していたと言います。20年ほど前までは社内にも立ち売り経験者がおりました。昭和36(1961)年には、黒磯駅前に栃食九尾センターをオープンさせて、生産体制を拡充させました。
―最初の駅弁は?
月江:「九尾すし」ですね。弊社社長が那須の九尾伝説にあやかってネーミングをしたと言います。九尾の狐ですから寿司は必然的に「いなり寿司」となりました。私も小さいころに、「九尾すし」をいただいた記憶があって、(半分の)曲げわっぱのような扇形の経木の折に入っていました。真ん中は狐の鼻に見える押寿司でした。初日の売り上げも記録に残っていて、69個を製造し66個が売れたそうです。他に幕の内や味噌汁を販売していました。
那須連山と九尾の狐が描かれた「九尾すし」(950円)の掛け紙。「九尾の狐」伝説は、平安時代末期に九尾の狐が美女に化け、鳥羽上皇を殺害しようとしたところ、陰陽師に見破られ、退治されて石(殺生石)になったと言います。江戸時代に、俳人・松尾芭蕉も奥の細道の旅の途中で立ち寄ったと云われ、掛け紙には、弟子の麻布が詠んだとされる「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上」の句が記されています。
【おしながき】
・いなり寿司
・五目いなり寿司
・太巻き
・かんぴょう細巻き
・かっぱ巻き
・チャーシュー寿司
・チーズ寿司
・スモークサーモン寿司
・紅しょうが
・香の物
九尾の狐伝説にあやかって、普通のいなり寿司と五目いなり寿司の2つの味が楽しめる「九尾すし」。復刻版でも、駅弁時代の曲げわっぱのような折をモチーフとする弧を描いた仕切りが設けられていて、できるだけ丁寧に復刻させようとした、作り手の皆さんの弁当への愛情が伺えます。今年(2022年)春先、残念ながら殺生石は割れてしまいましたが、「九尾すし」は、東北道・上河内SA(下り線)、宇都宮駅「とちびより」で健在です。
長年、黒磯駅構内で、直流と交流の切り替えを行っていた東北本線ですが、平成29(2017)年に、黒磯駅の直流化工事が行われ、黒磯と次の高久の間にデッドセクションを設けて電気の切り替えを行うようになりました。現在、黒磯~新白河間では直流・交流、両方を走ることができる車両が活躍しています。次回は、黒磯随一の人気駅弁だった、あの釜めしの話を伺います。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/