信越本線・横川駅には、どのようにして「駅弁」が生まれたのか?
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「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
東京から北陸新幹線の列車に乗車すると、最初に多くの乗客が下りるのが、信州の玄関口・軽井沢です。気候のいい時期は、高原のリゾート地としてにぎわい、冬場もアクティビティを楽しむ人たちで多くの人が訪れます。この軽井沢がリゾート地になる前、多くのVIPが訪れた温泉地が群馬県にありました。じつは信越本線・横川駅の駅弁のルーツも、その温泉から始まっていたのです。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第48弾・荻野屋編(第2回/全6回)
群馬・高崎から、軽井沢、長野、直江津を経由して新潟までを結んでいた「信越本線」。平成9(1997)年の北陸新幹線開業に伴って、横川~軽井沢間が廃止されたことにより、高崎を出た列車は、全て横川止まりとなります。沿線がとくに賑わうのが、週末を中心に観光列車「SLぐんまよこかわ」(注)が運行される日。レトロな雰囲気の旧型客車を率いた蒸気機関車が先頭に立つと、まるで昭和中ごろの鉄道風景がよみがえるかのようです。
(注)「SLぐんまよこかわ」は、EL(電気機関車)、DL(ディーゼル機関車)による牽引で、運行される日(列車)もあり。
信越本線・高崎~横川間が官設鉄道として開業したのは、明治18(1885)年10月15日のこと。この開業と同時に横川駅の構内営業者に参入したのが「株式会社荻野屋」です。明治18年といえば、栃木・宇都宮駅で「駅弁」が販売されたとされる年。その意味では、日本有数の歴史ある駅弁業者でもあります。今回は、群馬・横川の荻野屋本社に伺って、6代目トップの髙見澤志和代表取締役社長にお話を伺いました。
<プロフィール>
髙見澤志和(たかみざわ・ゆきかず) 株式会社荻野屋 代表取締役社長
昭和51(1976)年、群馬県碓氷郡松井田町(現・安中市)出身(47歳)。慶應義塾大学卒業後、海外留学を経て、平成15(2003)年、荻野屋に入社。平成24(2012)年には、荻野屋・6代目の代表取締役社長に就任、伝統を活かしながらさまざまな新しいチャレンジに取り組んでいる。
●霧積温泉の旅館から始まった「荻野屋」
―荻野屋のルーツを教えて下さい。
髙見澤:荻野屋のルーツは、江戸時代の末期から髙見澤政吉がやっていた霧積温泉の旅館です。もともと、髙見澤という姓は、信州・佐久のほうに多かったと聞いています。霧積温泉は、江戸時代から湯治場として人気があり、明治のはじめからは、「避暑地」として、政府の要人も訪れるようになりました。歴史ある宿のなかには、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文が滞在して、大日本帝国憲法の草案を書いたという宿もあります。
―なぜ、鉄道構内営業を手掛けることになったのでしょうか?
髙見澤:荻野屋には同じく明治政府の要人である桂太郎がよく宿泊していました。とくに政吉の妻・トモがお客様との人脈作りが巧く、この桂太郎から鉄道開通の情報を得ることができたことで、横川のいまの本店の場所に、政吉の弟・仙吉が旅館を出したんです。初代の仙吉はかなり厳しい人物だったと聞いています。鉄道が通るに当たり、仙吉がこの地域の取りまとめ役を果たしたこともあり、鉄道開業への功績が認められ、構内営業への参入が認められたのではないでしょうか。
●関所のまちから、鉄道のまちになった「横川」
―もともと、横川はどんなところだったのでしょうか?
髙見澤:古くは(2023年で開設400年を迎えた)中山道の碓氷関所があって、いまでは考えられないほど、多くのお店がありました。江戸時代には、参勤交代の殿様が休まれる本陣茶屋もあったといいます。それが官設鉄道の開業によって横川に機関庫が置かれたことで「鉄道のまち」になっていきました。鉄道関係者がほとんどだったかも知れませんが、横川自体の人口も多くなっていったんです。
―明治18(1885)年10月15日の横川駅開業に合わせて販売された最初の駅弁は?
髙見澤:おにぎり2個とたくあん2個を、竹の皮に包んで提供したと聞いています。駅前の旅館でおにぎりを作って、鉄道利用者に構内で販売したというわけです。ただ、開業当時の横川は終着駅で、碓氷峠は馬車で越えていました。その後、鉄道馬車となり、明治26(1893)年からはアプト式の蒸気機関車で運行されるようになりましたが、当初は碓氷峠を越える乗り換え客よりも、避暑地の霧積温泉を訪れる乗客で賑わったようです。
●アプト式鉄道の開業で、VIPのリゾート地は、霧積から軽井沢へ
―当時の鉄道利用者は、どんな方だったんでしょうか?
髙見澤:昔のアプト式鉄道開通式典などの写真を見る限り、当時の有力者、政府要人や財閥など、いわゆるVIPが多かったのではないかと推測されます。あと、カナダ生まれの宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーがその素晴らしさを伝え、教会を建てたことで、宣教師の方がよく行き来していて、文献のなかには「碓氷峠を下るのが清々しい」と書き記していた方もいたようです。
―その後、軽井沢が人気になっていくんですよね?
髙見澤:明治45(1912)年に、横川~軽井沢間が電化されアプト式の電気機関車になり、(輸送力がアップしたことで)軽井沢の人気に拍車がかかっていきました。鉄道で軽井沢を訪れる人が増える一方、それまでのリゾート地だった霧積温泉は明治時代に相次いで起こった大規模な土石流で壊滅的な被害を受けてしまい、いまのような秘湯になっていきました。
素朴な緑色の掛け紙が旅情を誘ってくれる荻野屋の駅弁といえば、横川店と軽井沢駅で販売される「玄米弁当」(800円)です。朝一番に製造された分のみで“売り切れ御免”の駅弁ということもあって、なかなか出逢うのが難しい駅弁としても知られています。発売は健康ブームのはるか前だった1970年代で、健康への意識が高く、普段から玄米を食していた4代目の高見澤みねじ社長が考案したといいます。
【おしながき】
・コシヒカリ玄米ご飯(小豆、ハト麦入り) 梅干し ごま
・手作りがんもどき煮
・椎茸煮
・ひじきの煮つけ
・自家製金平ごぼう
・たくあん
噛めば噛むほど、玄米の美味しさに気付くことができると評判の「玄米弁当」。かつて封入されていた弁当のしおりには、“どんなにご多忙でも、ご旅行中の時ぐらいは、ごゆっくりと良く噛んで(一口、八十回~百回)主食を三口、副菜を一口の割合で召し上ってください”と記されていたものです。何かとたくさん食べてしまいやすい旅人の健康を気遣った、作り手の愛情が感じられて、冷めていても、噛めば噛むほど心が温かくなる駅弁です。
かつての信越本線・横川~軽井沢間には、66.7パーミル(1kmで66.7m登る)の急勾配がありました。このため、2本のレールの真ん中に「ラックレール」と呼ばれる歯形のレールを敷き、機関車の歯車とかみ合わせて、急勾配を登り下りするアプト式が採用されていました。このアプト式鉄道と使われていた電気機関車は、国鉄時代に「鉄道記念物」に指定され、いまは、しなの鉄道・軽井沢駅(旧軽井沢駅舎記念館)に保存されています。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/