それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
上柳昌彦あさぼらけ 『あけの語りびと』
先月、1月28日、三重県津市香良洲町(からすちょう)にある民営飛行場で、有人動力機の試験飛行が行われました。
この飛行機を作ったのは、名古屋市立工業高校の「飛行機同好会」、1年生3人、2年生1人、3年生8人の、合計12人です。
明治時代の飛行機研究家、二宮忠八(ちゅうはち)が考案した「玉虫型飛行器」を基に、現代の航空技術を加えて開発しましたが、初飛行に至るまで、いくつもの高い壁が立ちはだかりました。
飛行機作りが始まったのは、いまから7年前の2010年。
『航空機産業の次世代を担う工業高校(生)育成事業』という事業の一環で、同校の生徒が15人ほど集まって、超軽量動力機の開発を始めます。
ところが、技術、予算、期限など、様々な壁が待っていました。
当時のことを、顧問の宮崎健太先生は、こう振り返ります。
「初号機が完成した時は、校庭を走らせて、いまにも飛び上がりそうで、夢も膨らみました。しかし、超軽量動力機には180キロ以内の重量制限があるところ、できた初号機は倍近くの355キロ、航空局の許可が取れず、試験飛行は断念。
それでも生徒たちは、精一杯やったし、誇らしい気持ちだったのです。ところが、周囲の目は(なぜ飛ばないんだ)(失敗じゃないか)という声で、3年生は、悔しい思いのまま、卒業していきました。
だから、残された生徒たちと、『必ず飛ばすことをゴールに、みんなで頑張ろう!』と誓いました。」
プロジェクトが終了し、予算のない中、飛行機同好会は日々、6分の1のサイズの模型機の製作に取り組みます。
すると、5年目の2014年、飛行機同好会に、いい風が吹きます。
名古屋市教育委員会から『世界に通用する人材育成』という事業予算が出ることになり本物の改良機の開発が始まります。放課後はもちろん、土日や夏休みを返上して製造に取り組みました。
宮崎先生は、生徒の体調管理にも気を配りました。でも、9月からは3年生が就職活動に入り、戦力がグッと減りました。
そんなとき、心強い味方が現れます。
三重県津市で民営の飛行場を経営する武鹿照英(ぶしかてるひで)さん63歳です。
スキンヘッドで一見怖そうなおじさんですが、超軽量動力機の製造や、学校もやっている、この世界のエキスパートでした。
問題だった機体は、航空用アルミを使うことで、半分の174キロまで軽量化。さらに、強度と操縦性を高め、順調に仕上がっていきました。
しかし、教育委員会に(いつ飛ぶのか)(まだ飛ばせないのか)と、せかされます。
2月は入試、3月は卒業式があるので、1月中に飛ばさないと、計画が中倒れになるかもしれません。
大阪航空局に「機体識別記号」や「型式(かたしき)認定」などを申請し、試験飛行の許可が全て揃ったのは、1月26日。
そしてその二日後、1月28日に待ちに待った初飛行を迎えました。
「飛行試験見学会」には、100人の学校関係者が集まりました。
格納庫から運び出したアルミの機体がキラキラと光り、応援の生徒たちから「かっこいい!」の声と共に拍手がわきます。
ライセンスを持つ武鹿さんが機体に乗り込むと、生徒が、二宮忠八が創建した「飛行神社」のお守りを渡します。
準備が整い、エンジンがかかると、プロペラが回り始めました。
4回トライアルを行い、5回目、逆風に向かってスピードを上げると、ふわりと機体が浮かび上がりました。
滑走路内の試験飛行なので、すぐに着陸態勢に入ります。ちょっとバランスを崩しかけ、一瞬ヒヤリとしましたが、1mほどの高さを、5秒間、70mほど飛んで、無事に着陸。
飛行機同好会の12人が「やった!」と機体へ駆け寄って行きました。卒業生は、「俺たちの時代に、飛ばしたかった!」と嬉し泣き。
この7年、宮崎先生は、心が折れて、何度も諦めかけた、と言います。
「諦めなければ、夢はかなう」、そして、逆風に向かって飛ぶことを、飛行機に教わりました。
次の目標は、日本一広い、名古屋の道路を滑走路にして、大勢の市民の前を、飛んでみたい!
「飛行機同好会」の夢は、グングン、空高く、飛んでいます。
2017年2月15日(水) 上柳昌彦 あさぼらけ あけの語りびと より
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
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