歌う漫画家ちえと荒木町の新太郎が流して歩いたふたり旅
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
江戸時代は美濃国・高須藩藩主・松平義行の屋敷。明治に入り、屋敷が無くなった跡地の大きな池や庭園が一般にも知られるようになり、東京近郊でも指折りの景勝地として、料理屋が軒を連ね、芸者衆が行き交う花街へと発展しました。そう、今日のお話の舞台は新宿区四谷・荒木町・・・。そぞろ歩くには広すぎず狭すぎず、丁度いい具合の通りが二筋、三筋。荒木町は、昭和三〇年代の花街の面影を色濃く残す大人の街です。
火曜から金曜まで週に四日間、この通りを流して歩いているのは、宮本千愛(ちあい)さん。人呼んで「歌う漫画家ちえ」さん・・・。和服姿に三味線を抱え、雨の日も風の日も一日15軒から20軒ほどの馴染みの店を回ります。多いときは2~3回転することもあるといいます。
昭和歌謡を中心に洋楽まで、そのレパートリーは・・・とうかがうと、「分かりません。数えたことがないんです」という答えが返って来ました。つまり、リクエストに応えて何でも歌えるということでしょう。一番古い記憶に残っているのは、2~3歳の頃に歌ったカセットテープ。曲目はマイク真木さんの「バラが咲いた」だったといいます。もの心がついてからは、美空ひばり、笠木シヅ子と、どんどんさかのぼり、レパートリーは「分かりません」~ということになりました。
「歌う漫画家ちえ」さんは、名古屋の生まれ。大学時代から昭和歌謡のバンドを組んで歌い始めましたが、本当の夢は漫画家。集英社「YOU」で初めて描いた漫画が期待新人賞を受賞。漫画家を目指して、小池一夫塾の一期生として入塾し、修了後は名古屋造形芸術大学短大に入学。24歳の時に漫画家デビュー。地元の情報誌で連載、広告などを手がけますが、漫画家としてのステップアップを求めて、2010年に上京しました。そして、ここで出会ったのが・・・いえ、出会ってしまったのが、国内で最高齢の流し「荒木町の新太郎」さんだったのです。
新太郎さんに、ちえさんを引き合わせてくれたのは、四谷三丁目でスナックを経営しているガロ系漫画家・東陽片岡(とうようかたおか)さん。「そんなに歌が好きなら会わせてあげるよ」と、その場で電話してくれました。そこに現れたのが「荒木町の新太郎さん」でした。
「ああ、白黒映画で観た本物の流しが、ここにいる! ~という感じでした」と、出会い時の衝撃を振り返るちえさん。
「新ちゃんも年なんだし、若い女の子と一緒に歩いたら元気も出るよ」という東陽片岡さんの勧めで、ちえさんは新太郎さんへの弟子入りを許されます。師匠のスケジュールの管理など、マネージャー業務も兼務するかたわら、そのギターのために雨の日用のカッパを作るなど、何でもしました。漫画から流しへの転換は、全くの畑違いというわけではありませんでした。新太郎さんが歌うそばで、お客様の似顔絵をサラサラッと描いてあげると、とても喜んでもらえたからです。ちえさんは語ります。
「戦中・戦後の混乱で親とはぐれてしまった師匠は、ろくに学校も行けず、上野で路上生活を送ったこともあるそうです。14歳でギターを手にして、流しの仕事を始め、全国を渡り歩いて、15年前、荒木町にたどり着きました。若い頃の不摂生がたたって、私が出会った頃には、すでに病気を8つも抱える体だったんです」
そんな病気の体をおして荒木町を歩き、ギターをつま弾いて哀愁の歌声を響かせていた新太郎さんは、去年の7月に入院。「肝臓がんで余命一カ月」という診断通り、8月19日未明、75年の人生の幕を閉じました。
ふたりで歩くようになってから、新太郎さんは自作の歌の歌詞を変えて、こんなふうに歌ってくれたといいます。
♪「小さなギターを肩にかけ、今日も四谷をふたり旅 時代遅れの商いと 人は気軽に言うけれど 俺にはこれしか能がない 荒木町の 荒木町の 俺は新太郎」
師匠亡きあとも、ちえさんは三味線を置きませんでした。
「どんな出逢いも、どんな人も大切に。師匠が教えてくれたことです」
ちえさんは、去年の暮れ、今年のカレンダーを100部ほど作りました。「あれ、今夜は一人? 新太郎さんは?」と聞いてくるお客様に、師匠の訃報をそっと知らせるためです。
「よし、今年の新年会は、荒木町だ!」と思った方、あわてないでください。「歌う漫画家ちえ」さんの仕事始めは、新年の九日からだそうです。
上柳昌彦あさぼらけ 『あけの語りびと』
2018年1月3日(水) 上柳昌彦 あさぼらけ あけの語りびと より
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
眠い朝、辛い朝、元気な朝、、、、それぞれの気持ちをもって朝を迎える皆さん一人一人に その日一日を10%前向きになってもらえるように心がけているトークラジオ