あけの語りびと

『トランクの中の日本』が問う戦争 8月6日と9日に何があったのか

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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

連日、熱闘が繰り広げられている甲子園。今年の高校野球は100回記念大会と言われていますが、本当は104回大会になるはずでした。太平洋戦争が始まった1941年は地方大会のみ実施。翌年から大会は4年間中止になりました。
夏の甲子園では毎年8月15日の正午、試合を一時中断してサイレンを鳴らし、選手や監督、そしてスタンドの観衆も戦没者への黙祷をささげるのが恒例になっています。そう、8月15日、今日がその終戦記念日です。

昭和20年8月15日。日本人は「神風」は吹かず「大和魂」も破れることを知りました。私たちはそのリアルな現実を、子どもたちに伝えて行かなければならない。8月6日と9日に何があったか? その悲惨さを語り継がなければならない。そのために毎年、8月15日がやってくるのではないでしょうか?

手元に、小学館が刊行した一冊の写真集があります。タイトルは『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』。この写真を撮ったアメリカ海兵隊のカメラマン(ジョー・オダネル)は、当時23歳の軍曹でした。「空襲による日本の被害状況を記録せよ」との命を受け、昭和20年9月2日に、佐世保に近い海岸から上陸しました。

それから7カ月間にわたって、佐世保、福岡、神戸、広島、長崎など、焦土と化した50以上の市町村で、米軍のカメラと自分のカメラで撮影。翌年3月、アメリカに帰国して除隊。自分のカメラで非公式に撮ったおよそ300枚のネガを、トランクに入れて封印してしまいます。ジョー・オダネルは後に、こんなふうに回想しています。
『生きていくために、すべてを忘れてしまいたかったのだ』

ジョーが反核運動の中で焼かれるキリスト像に胸を打たれ、屋根裏にしまい込んだトランクのフタを開く決心を固めたのは、それから45年後のことでした。戦争という悪夢を訴えるために、彼はネガを現像して写真展を開いたのです。

1990年8月、アメリカのテネシー州ナッシュビルで開かれたジョー・オダネルの写真展は、勇気ある行動と評価される一方で、原爆投下は正当なものだったと教育された人々からは非難を浴びました

『チョコレートを一かけらもらい、カメラの前に立つ子ども』
『荷車にたった3枚の畳をくくりつけ、どこかへ引っ越す家族』
『道路そうじの手伝いをする子どもたち』
『草むらに転がるいくつもの真っ白な頭蓋骨』
『私を殺してくれと言った仮設病院の患者』
『背中一面、大やけどを負って横たわる少年』

ある日、ジョーは何度か訪れた長崎の中心地に足を踏み入れます。川岸に設けられた焼き場には、次々に遺体を乗せた荷車が到着。白い大きなマスクを付けた係員が、荷台の遺体の手足を持って次々に、炎の中に投げ込みます。焼かれた灰を持ち帰ろうとする者はなく、後に残るのは、赤く燃え上がる炎と耐えがたい臭気のみ・・・。

その時、ジョーは10歳くらいの少年がたたずんでいるのを見つけます。すすけた白い服を着た体はやせ細り、足は裸足・・・。風変りなのは、少年が背中に赤ん坊をおぶっていることでした。赤ん坊は熟睡しているのか、首がダラリと折れ曲がっています。焼き場のふちまで進んだ少年は、両手を指先までピンと伸ばし、口を真一文字に結び、直立不動の姿勢で燃え盛る炎を見つめています。

やがて係員が少年のおぶいヒモをほどき、赤ん坊を背中からはずします。この時ジョーは初めて、赤ん坊がすでに死んでいることに気づきます。係員がその遺体を炎の中に置くと、ジュウという小さな音が聴こえました。少年は直立不動のまま涙一つこぼさず、この一部始終を見届けると、軍人のようにクルリときびすを返し、どこへともなく立ち去りました。

ジョーは語っています。「私は初めて、軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年は、とてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった」

ジョー・オダネルのこの写真『焼き場に立つ少年』は、2007年、長崎原爆資料館に寄贈されました。少年は今も、口をキリリと結んで、赤い炎を見つめています。

上柳昌彦 あさぼらけ
FM93AM1242ニッポン放送 月曜 5:00-6:00 火-金 4:30-6:00

朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ

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