阪神・淡路大震災をきっかけにして生まれた『パンの缶詰』
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
いざという時のために、備蓄しておきたい食品はすでに、いろいろなものが開発されていますね。水かお湯をかけるだけで食べられるご飯、温めなくても美味しいカレー、保存用ビスケット、乾パン、水ようかん、おでん缶・・・。お宅では、どんなものを備蓄されているでしょうか?
そんな備蓄食品の中に、しっとりして柔らかいまま保存がきく『パンの缶詰』があるのを耳にしたことがある方は、多いでしょう。けれども、この『パンの缶詰』が、どのような経緯から生まれたのか? そして今、どのように発展しつつあるのか? そこまでご存知の方は少ないと思います。今回は、そのあたりをご紹介しましょう。
1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災。あれからもう、23年も経ってしまったんですね・・・。パンの缶詰は、この大災害をキッカケに、栃木県那須塩原市のパン屋さん『パン・アキモト』で誕生しました。創業者の秋元健二さんは、早朝の仕事場で、このニュースを知りました。神戸の友だちには、何度電話をかけてもつながりません。
「自分たちに、何ができるだろう?」
居ても立っても居られない秋元社長は、息子の義彦さんと一緒にあれこれ思案を重ねました。
「義援金を募ろうか?」「ボランティアに駆けつけようか?」
けれども、自分はパン屋です。被災地でお腹を空かせている人たちのためにパンを焼いて届けよう! こうして、秋元さん親子は2,000個のパンを焼き上げ、トラックを走らせました。クリスチャンだった秋元さん親子は、各地の牧師さんと連絡を取り、リレー方式で運転をしたといいます。けれども、それから数日後に届いたのは、悲しい知らせだったのです。
「秋元さん、おいしいパンをありがとう。でも半分以上のパンが食べられなくて、捨てられてしまったんだ。本当に申し訳ない」
言いにくそうな現地からの報告に、秋元さん親子は落胆したといいます。
「おいしくて、やわらかくて、長期保存のきくパンはないでしょうか?」
被災地からの要望に、秋元さんは力なく答えました。
「無いですねぇ・・・」
その時に返ってきた言葉が、胸に突き刺さりました。
「無いのなら、あなたが作ってよ!」
息子の義彦さんは、思ったそうです。
「おいしくて、やわらかくて、長期保存のきくパン作り。これは、自分のパン職人としてのミッションかもしれない!」
けれども、開発費も研究室もない小さな町のパン屋のことです。秋元義彦さんは、その日の作業を終えると工場長と二人、作業場の片隅で実験を繰り返しました。
こうして試行錯誤100回以上、1年半あまりの時間をかけて生まれた「パンの缶詰」を、秋元義彦さんは「五番目の子ども」と呼んでいます。この五番目の子どもの活躍ぶりは、目ざましいものでした。NHKのニュースで取り上げられ、2004年の中越地震でも役立ち、2005年には、沖縄の米軍基地の認定を受けました。こうして世界にはばたいた「パンの缶詰」・・・。しかし、秋元義彦さんの本当にすごいところは、ここからでした。
「パンの缶詰」の賞味期限は3年。その後の処分には費用がかかります。そこで秋元社長は、賞味期限の一年前にユーザーに声をかけ、古い缶詰を回収する代わりに新しい缶詰を割引きで届ける方法を考えました。こうして引き取った賞味期限の迫った缶詰は、今すぐ食糧を必要とする海外の人たちに届けるというシステムを作り出したのです。「救う鳥の缶」と書き『救缶鳥プロジェクト』と名付けたこのシステムは、宅配業者の協力を得て、備蓄している缶詰を回収するルートも確保。「パンの缶詰」は今、被災地だけでなく世界の飢餓に苦しむ人たちにも届けられているのです。
はばたけ! 救缶鳥!
上柳昌彦 あさぼらけ
FM93AM1242ニッポン放送 月曜 5:00-6:00 火-金 4:30-6:00
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
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