明治時代から脈々と続き海外へと広がってゆく盆栽の歴史『愛知園』
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
テレビ朝日系で放送されるお正月恒例『芸能人格付けチェック』という人気番組をご存知でしょうか? 芸能人のゲストのみなさんが「AとBどっちが高級品か?」を当ててゆく単純なルールなんですが、これがなかなか当たらないから面白い。
「100万円のワインと5,000円のワイン A・Bどっちの味か?」「2,000万円のピアノと8万円の中古ピアノ A・Bどっちの音か?」こんな問題の中に、内閣総理大臣賞を受賞した「1億円の盆栽」と「2万円のお菓子の盆栽」が並んで出たことがあります。分からなくて、多くの回答者がうなっていたのを覚えています。
日本の伝統的芸術でありながら、その見方・楽しみ方が分からない! 1896年(明治29年)創業、愛知県名古屋市の「愛知園」園主、田中淳一郎さんに、盆栽の魅力についてうかがってみました。
「一言でいえば『古さ』ですかね。今に至るまでの手間ひま・時間・年月が伝わってくるんです」
こう語る田中さんの手元には、創業者のひいお爺さん=鋤次郎(すきじろう)さんが手掛けた作品以来、千鉢を超える盆栽があるそうですが、鋤次郎さんがどんな想いで、どんなことを考えていたのか? どれだけの愛情を注ぎこんでいたのか? それが伝わってくるのだといいます。
「手抜きをした部分は、証拠として残ってしまうんですよね。それがまた、面白いところでもあるんですが」とほほ笑む田中さん。
創業者の田中鋤次郎さんは、農家の長男として生まれました。長男が家督を継ぐのが当たり前の世の中。名前に込められた農機具の鋤という字からも親の「農業を継いでくれよ」という思いが伝わってきます。けれども、鋤次郎さんは17歳の時に実家を出て「愛知園」を創業。稲や野菜の代わりに、千本の梅の木を植えて育てたのだといいます。その1本の梅の盆栽が今も、ひ孫の淳一郎さんの手入れを受けています。
愛知園は、創業者の鋤次郎さんから2代目の幸四郎さんに受け継がれ、盆栽づくりの事業は順調に伸びていきました。しかし、戦争がはじまると「戦時下において、盆栽とは何事ぞ!」という風潮が高まり、事業の維持は困難を極めていきます。そんなさ中、自宅と作業場は全焼。戦後、わずかに残った盆栽とともに愛知園は3代目の清光(きよみつ)さんに受け継がれます。父の清光さんは4代目の淳一郎さんに「愛知園を継いでくれ」とは言わなかったそうです。この仕事の大変さを知っていたからなのか? けれども淳一郎さんは、そうは思っていないそうです。
「父は、私が継いでくれるものと信じ切っていたからでしょう」
一本の木と一個の鉢。この中で、どういう風に育てていこうか? 盆栽づくりは、その構想を練ることから始まります。自分の構想に沿って、枯れた枝葉を落とし、残した枝にワイヤーを巻く。思い通りの形に育ってくれるかどうかは、木の元気さにかかっています。愛情を込め、情熱をぶつけていけば、木は必ず応えてくれるはず。それでも思い通りに行かないときは、作業を一年前の振り出しに戻さなければなりません。
この試行錯誤が毎日、何年も何十年も続きます。すぐに結果を求めたがる現代の若者たちが、盆栽づくりの地道な作業を喜ぶわけもなく、淳一郎さんの悩みのタネは、後継者の育成です。木は、自分たちよりも長生きします。淳一郎さんの手元には、初代から3代目までの作品も残っています。3人の息子さんに恵まれましたが、長男はまだ中学生。盆栽との語らいを押し付けるわけにもいきません。
ある日ふと、淳一郎さんは、海外での盆栽人気に思いを馳せます。日本貿易振興機構の統計では、盆栽と庭木を合わせた輸出額は、2001年におよそ6億4千万円だったのに対して、2012年にはおよそ81億円と13倍近くもの伸びを示しています。命を持ち、変化し続ける終わりなきアート・・・盆栽。
それが外国人の大きな関心を呼んでいるようです。淳一郎さんは愛知園のホームページに、英文の説明を載せてみました。こうして今、愛知園は、海外からの研修生が寝食をともにする盆栽園として脚光を浴びています。
「外国人に日本特有の盆栽の美学が分かるんでしょうか?」
この問いかけに、田中淳一郎さんは明るく答えてくれました。
「そんな不便さは、一度も感じたことがありませんねぇ」
上柳昌彦 あさぼらけ 『あけの語りびと』
2018年5月9日(水) 上柳昌彦 あさぼらけ あけの語りびと より
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
眠い朝、辛い朝、元気な朝、、、、それぞれの気持ちをもって朝を迎える皆さん一人一人に その日一日を10%前向きになってもらえるように心がけているトークラジオ