それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
ビジネスにも恋愛にも「美学」というものがあります。人は「何のために、そんなことにこだわるの?」と不思議がる。「こうした方が、もっと能率的なのに」と指摘される。しかし、そんな声には耳も貸さず、守り通す自分の流儀やスタイル、「頑固なこだわり」は、やがて人から「美学」と呼ばれるのでしょう。
日本の武家の古都・鎌倉で、そんな美学を守り通している人がいます。青木登さん、70歳。藍染めの半纏に茄子紺の股引。真っ白な足袋。短く刈り上げたゴマ塩頭には、細くねじった豆絞りの手ぬぐいが、キリリと巻かれています。
かたわらに止めてあるのは、ピカピカに磨き上げたレトロな人力車。青木さんの「美学」は、こうした姿・形だけではありません。34年前、観光用の人力車を開業したその日から、青木さんは一切の「客引き行為」を封印したといいます。
理由は、「古都の品格を大切にするために」・・・。その姿は今や、鎌倉の風情の一部とさえ呼ばれるようになりました。これが、青木さんの「美学」なのです。
昭和23年3月。茨城県結城郡の農家の6人兄弟の5番目に生まれた青木登さんは、小さいころから健康優良児。野球やドッジボールは誰にも負けない、ついでにケンカも強い、わんぱく少年でした。中学卒業後に集団就職で上京。ブリジストンの野球チームに入り、10年間、夢中で仕事とトレーニングに励みました。この頃身に付けた身体的能力が、今の仕事の基礎になっているのでしょう。その後、服飾やバッグの販売に身を転じ好成績を上げますが、思うような評価を得られず、青木さんは独立を決意。35歳のときでした。
宮仕えは嫌だと独立を決意したものの、手持ちの資金もなく悶々とする日々。青木さんはある日、銀行で一冊の雑誌を手にします。そこには、飛騨高山の観光人力車を紹介する記事とグラビアが載っていました。「これだ!」 体の中を何かが走ったといいます。資金がかからず一人で引ける観光人力車。体力なら自信がありました。調べてみると、飛騨高山の他、倉敷、萩、長崎、愛知県の博物館・明治村。人力車の車夫がいるのは、当時は、これくらいでした。
胸の中で「チャンス!」という言葉が、鐘のように響いていました。昔から憧れだった街、鎌倉に引っ越して開業の準備。飛騨高山の旅行代理店に頼み込んで、中古の人力車を入手。北鎌倉の幼稚園に通う園児と母親に乗ってもらい引く練習を重ねました。早朝は体力作り、鎌倉案内ができるように寺社や街中を巡り歩いて勉強。こうして、1984年元日。青木さんの第2の人生が走り始めました。
しかし、待てど暮らせど、人力車に乗ってくれる人はいませんでした。物珍しそうに見ながら通り過ぎてゆく人・人・人。青木さんは振り返ります。
「目立ってしまう人力車に乗ろうという人はなかなか現れませんでした。でも私は、乗りたい人だけに乗っていただくのが一番だと思います。ですから、積極的に声をかける客引きは、一切しません。それをやったら街に迷惑がかかる。鎌倉には、そんな雰囲気があるんです」
青木さんは一計を案じ、ポラロイドで人力車と一緒に写真撮影。その場で渡すというサービスを始めました。一枚700円。これは喜ばれたといいます。やがて、鶴岡八幡宮で式を挙げた新郎・新婦を披露宴会場まで送迎する仕事が入り始め、営業は少しずつ軌道に乗っていきました。
人力車の重さはおよそ80キロ。大人を2人乗せれば総重量は200キロ。上り坂よりも重さで勢いがつく下り坂で安定させるのが難しいといいます。青木さんは今も朝5時半に起床、1時間ほど体を動かし、雨天を除く日を年間およそ300日、日没まで営業しています。34年間の走行距離は12万キロ以上、乗せたお客様はおよそ12万人。結婚式のカップルは8,500組。家族からの依頼で、余命いくばくもないおばあちゃんを乗せ、満開の桜並木の下を何度も行き来したこともあるそうです。
こんな青木さんの半生をまとめた本が今年4月に出版されました。鎌倉のデザイン事務所「1ミリ」の代表、古谷聡さんが青木さんの元へ通い詰めて聞き書きした本。タイトルは『鎌倉には青木さんがいる~老舗人力車、昭和から平成を駆け抜ける~』。
上柳昌彦 あさぼらけ 『あけの語りびと』
2018年6月6日(水) 上柳昌彦 あさぼらけ あけの語りびと より
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
眠い朝、辛い朝、元気な朝、、、、それぞれの気持ちをもって朝を迎える皆さん一人一人に その日一日を10%前向きになってもらえるように心がけているトークラジオ