趣味のステンドグラスからはじまった めくるめく万華鏡作家の人生
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
万華鏡・・・カレイドスコープ。色とりどりの不思議な形が、無限に変化してゆく幻想的小宇宙。時間がたつのも忘れて見入っていたのは、いつの頃だったでしょうか? 私たちはいつしかそんな体験を忘れ、日常の変化ばかりを追うことで精一杯の生活を送っています。万華鏡・・・久しぶりにのぞいてみたいと思いませんか?
万華鏡は、今から200年ほど前の1816年、スコットランドの物理学者、ディビッド・ブリュースターという人が考案したと伝えられています。灯台の光をより遠くまで届かせるため、光の屈折の研究をしていた彼は偶然、万華鏡の原理を発見したといいます。
万華鏡の魅力をアートとして世界に広めたのは、コージー・ベイカーというアメリカの女性。息子を交通事故で失った彼女が、失意の底で出会ったのが万華鏡でした。深い悲しみを、ほんの一瞬でも忘れさせてくれた万華鏡の本を書こうと決心した彼女は、全米を巡り歩き作家に会い、万華鏡を収集しました。この時の人的つながりを元に出来上がったのが、ザ・ブリュースター・カレイドスコープ・ソサエティー・・・。万華鏡の世界的組織だったのです。
「ベイカーさんのお宅には、私もお邪魔したことがあります。リビングからキッチン、トイレまで、家じゅうが万華鏡に埋め尽くされていました」
こう語るのは、千葉県流山市の万華鏡作家・中里保子(なかざとやすこ)さん、67歳です。スキーウェアのデザイナーを20年も務めていた中里さんは、自分の作品が売り上げや売れ行きだけで評価されてゆくことにストレスを感じていました。
そんな時、夕刊で目にしたのがステンドグラスのアートスクールの広告。『面白そう!』と感じた中里さんはすぐ入校。何もかもが新鮮でした。そして、3年目の夏休み。自ら志願した夏期講習のテーマの一つにあったのが万華鏡だったのです。まさに運命の出会いでした。中里さんは語ります。
「日本ではなぜか民芸品や子どものおもちゃとして広まった万華鏡ですが、2005年の愛知万博では、藤井フミヤさんプロデュースの「大地の塔」が話題になりました。あの中にあったのが万華鏡ホールでした」
40歳になってからやっと巡り合ったライフワーク。中里さんは日本万華鏡クラブに入会。公募展などで毎年一つ、作品を発表してゆきます。こんな中里さんが脚光を浴びたのは2003年の展覧会。クリスマスツリーをモチーフにしたオルゴール付き万華鏡が受賞したのです。これをキッカケに思いがけない声がかかりました。
「国際万華鏡展に出品してみませんか?」
それまでは趣味の領域で夢中で作り続けてきた中里さんが初めて、万華鏡作家として認められた瞬間でした。
アメリカ・ワシントンへ渡って見た万華鏡の世界。それはまさにカルチャーショックでした。その多様さと奥深さ、そして美しさ・・・。
「自分のような素人が間違って賞を獲ってしまったことに大きな格差を感じました。世界の万華鏡と自分の歴史の浅さを思い知ったんです」
こう振り返る中里さんですが決して負けませんでした。その胸には20年ものデザイナー生活で培ったプライドがありました。2007年、一切のデザインの仕事をやめて、万華鏡に没頭。これまで公募作品だけでも100点、小さな作品を含めれば、およそ1万点もの万華鏡を作ってきたといいます。
毎年、アメリカで開催されてきた万華鏡の世界大会「ブリュースター・カレード・スコープ・ソサエティ・インターナショナル・コンベンション」が、去年初めて日本の京都で開かれました。国内外から出品された新作万華鏡69点のうち、最優秀作品賞に選ばれたのは中里保子さんの「紅花流水紋(こうかりゅうすいもん)」・・・。すべてガラス作りで、外観は水の流れと梅花をイメージ。尾形光琳の名作「紅白梅図屛風(ばいずびょうぶ)」をヒントにした作品だといいます。
「自分のやりたいことは何なのか? テーマを決めて、素材を選び抜き、違うものを排除しながら、完成のイメージに近づけていく。この姿勢を最後まで崩さないで貫くことが大切なんです」
あらゆるモノ作りの基本を知る中里さんの心にも不安があったといいます。
「毎年毎年、違うモノを作ってきた私は自分を見失い支離滅裂になっているのではないかしら?」
この不安を払しょくしてくれた人の言葉が今も忘れられないといいます。
「大丈夫。中をのぞいたらひと目で、中里さんの作品だと分かりますよ」
上柳昌彦 あさぼらけ 『あけの語りびと』
2018年5月23日(水) 上柳昌彦 あさぼらけ あけの語りびと より
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
眠い朝、辛い朝、元気な朝、、、、それぞれの気持ちをもって朝を迎える皆さん一人一人に その日一日を10%前向きになってもらえるように心がけているトークラジオ