権威・地位・名誉……その行く末は?
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「報道部畑中デスクの独り言」(第162回)
ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は「桜を見る会」の騒動と、昭和の大人気番組「ザ・ベストテン」で起きた意外な問題点について---
総理大臣主催の「桜を見る会」をめぐる問題が尾をひいています。膨れ上がった招待者人数、またそのなかに反社会的勢力の人物が含まれていたと言われており、野党が追及する構えを見せています。
そもそも「桜を見る会」は1952年(昭和27年)、時の吉田茂総理大臣が始めたもので、各界において功績、功労のあった方々を招き、日ごろの労苦を慰労するためとされました。
また、安倍内閣は「内閣総理大臣が各界において功績、功労のあった方々を招き、日頃の御苦労を慰労するとともに、親しく懇談する内閣の公的行事として開催しているものであり、意義あるものと考えている」と閣議決定した答弁書を公開しています。
桜を見る会に招待されることは、さぞや名誉なことなのでしょう。今回のことはさまざまな問題提起があろうかと思いますが、私がつくづく感じるのは、名誉・権威・地位、あるいは賞やランキングというものは、ときが経つにつれてその多くが「手段が目的化して行くもの」であるということです。
つまり、本来「功労のあった人」「功績のあった人」に対し、慰労、祝福、顕彰を行うべき崇高な理念を持っていたものが、いつしか「慰労や祝福、顕彰を受けるにはどうすべきか」ということにすり変わってしまうのです。
小欄でも何度かお伝えしたことがありますが、昭和の時代、「ザ・ベストテン」(TBSテレビ)という一世を風靡した音楽ランキング番組がありました。視聴者がいまいちばん聴きたい、見たい歌を上から10曲並べるというシンプルな理念の下、大人気番組となり、私も大好きで毎週欠かさず見ていました。
それは当時の歌手たちの類まれなるパワー、情熱あるスタッフによる細やかな演出、ランキングに対する真摯な姿勢、本物の音楽を目指す人たちに加えて、ハガキのリクエストという形で番組に参加する視聴者に支えられたものでした。
出演者、放送局、視聴者……それぞれが三位一体となり、絶妙なバランスを保っていたことも、多くの人々の支持を集めた理由だと思います。
番組にはランクを決める要素として、「レコード売り上げ」「有線放送ランキング」「ラジオランキング」「ハガキによるリクエスト」があり、当初は視聴者の要望に最大限に応えるべく、ハガキによるリクエストが最も高い比率を占めていました。しかし、次第にその比率は改められ、晩年はレコード売り上げが最も重要なデータとなって行きました。
こうなったのはさまざまな理由がありますが、ハガキによるリクエストの比率が相対的に下がったのは、「組織票」が目に余るようになったからとされています。
音楽関係者から聞いた話ですが、ある歌手をランクインさせるために、ファンクラブなどでリクエストのハガキを書いたと言います。ここまではまだわかるのですが、さらに、それが組織票とばれないように、投函するポストまで指定していたと言うのです。
音楽関係者の側からすると「企業努力」ではありますが、番組が大きな支持を受け、歌手にとって憧れの存在になればなるほど、その理念は歪められて行くことになります。「本当に聴きたい、見たい歌を選ぶ」から、「ランキングを上げるために何をすべきか」というように変遷して行きました。
ザ・ベストテンは長らく大きな支持を得ましたが、平成に入り、11年9ヵ月の歴史に幕を閉じます。「音楽シーンの変化」などさまざまな理由が考えられますが、手段が目的化することによって当初の理念が崩れ、徐々に視聴者との乖離が進んだのも背景の1つと思います。
「○○賞」「△△ランキング」というものは無数にあり、もちろん、これらを否定するものではありません。ときに大きな幸せを生み出すものでもあるからです。しかし、常に「手段が目的化する」という状況に堕するリスクと背中合わせにあります。
選考者の定期的な入れ替え、データに対する厳密なチェック、選考過程の透明化など、権威や意義を維持するためにさまざまな工夫を施しますが、何と言っても選ぶものについて、みんなが納得・同意できるよう努めることが大前提となります。
そうした努力を怠り、惰性に任せたものは、いずれ淘汰される運命にあります。名誉や権威に群がる人は後を絶たないでしょう。しかし、手段が目的化している実態にあるならば、その取り組みは「使命を終えた」と考えるのが自然かと思います。桜を見る会も、これと同根と感じてしまうのですが、いかがでしょうか。(了)