阪神・淡路大震災25年 尽きぬ思いを語り継ぐ【みんなの防災】
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「報道部畑中デスクの独り言」(第169回)
ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、阪神・淡路大震災の追悼行事「1.17のつどい」について---
2020年1月17日、6434人が亡くなった阪神・淡路大震災、今年(2020年)もこの日がやって来ました。今年は25年という節目でもあり、多くの方々が災害への思いを新たにしたのではないかと思います。
震災発生当時に感じたことは、昨年(2019年)の小欄でもお伝えしました。その小欄では、東京都内で初めて追悼行事が開かれたこともお伝えしましたが、今年も行事は開催され、足を運びました。
会場は昨年の日比谷公園から代々木公園に移動。神戸市中央区の「東遊園地」で開かれる「1.17のつどい」の、「希望の灯り」から分灯された灯りは参加者の手によって「1.17」の形に並べられ、周囲を温かく照らします。その灯りは250個、発生時刻から12時間後、午後5時46分に黙とうがささげられました。
参加者は早朝、神戸の追悼行事から新幹線で移動した人、かつて震災を経験し、いまは東京に住んでいる人、震災後に生まれた人とさまざま…およそ300人が集まりました。現地で被災した人は、当時の様子を改めて振り返ります。
当時、神戸に住んでいた女性は「震災前に月の色が赤かったのを覚えている」と語ります。家族は親戚が亡くなった関係で、鳥取にいたため、家には(留守番の)1人だけで部屋に閉じ込められ、縦揺れにおびえながら過ごしたと言います。家は半壊、ただ「何も物が落ちて来なかったことが救いだった」と話しました。
いまは千葉県松戸市に住んでいる女性は、震災当時は大阪に。「道路の方から大きな音がし、突然たんすが飛んだ。ポルターガイストのように部屋のなかの物が全部飛んだ。夢でも見ているのかと思った」。
翌日18日は自分の誕生日で、北海道の友人から電報が。「悲惨な状況になっていると思うが、生きていたらまた逢おう」…その言葉に勇気づけられたそうです。「自分は生かされたのだ」とも。
震災当時、神戸市須磨区で小学6年生だった女性。実家の被害は小さかったものの、ライフラインはストップ、水汲みを担当したそうです。「長田区の空が(火災で)真っ赤で、空襲を見ているかのような光景が忘れられない」と話しました。
一方、「震災後に体験したことは自分にとって原点のような温かい体験。忘れかけていた大切なもの、思いやり、協力を教えてくれた」と振り返ります。
また震災当時、被災地にはいなかったものの、実家などで縁がある人も集いました。
実家が神戸市兵庫区にある女性は、当時東京にいました。出産のため実家にも帰ろうとしましたが、お腹が痛くなって東京に。家は全壊し、「ごめんね、何にも取り出せなかったわ」と母親の声。女性は3月にようやく神戸に戻って、男の子を産んだそうです。「生きていることの奇跡を伝えたい」と話します。
25年前は神戸大学の学生だった女性。当時は足をけがして休学し、東京の実家にいました。神戸大の学生は39人が亡くなり、「自分だけ助かってしまった罪悪感がある」と話します。その後、ボランティアに向かい、避難所で寝泊まり。その人たちとはいまもつながっているそうです。大学の修士論文のテーマはもちろん「阪神大震災」。いまは防災関連の仕事をしています。
千葉県佐倉市の女性は大阪府茨木市で被災。2011年には東日本大震災でも帰宅難民になります。自然災害の確率が増えているなか、「すべての災害対応は阪神淡路大震災から始まっている。その部分をもっともっと伝えて行かなくてはいけない」と話してくれました。
そして、参加者のなかには震災後に生まれた若い人もいました。この人たちにとってはすでに「歴史上の出来事」ですが…。
広島県出身の男性は1995年生まれ。教科書で写真を見たのが初めての経験でした。去年の集いにも参加し、「これからも自分たちが大切な思いを後世につなげて行きたい」と話します。
神戸市須磨区で震災1年後に生まれた男性もいました。当時、家族は転勤で沖縄にいました。母親はテレビをつけておらず、実家の被災を人づてに聞きました。それ以降、家では母親が「消さんといて」…毎朝テレビをつけているそうです。
神戸で生まれた女性はいま19歳。母親の震災経験を話してくれました。たまたま祖父が出張していたため、母親は震災当時、いつもと違い、祖父が寝ていた場所で寝ていました。「いつものところで寝ていたら、たんすの下敷きになっていた」と話します。祖父が母親(=祖父にとっての娘)を守ってくれたということかもしれません。
子どものときはピンと来なかった震災の話も、年を重ねるにつれて、大変とかそういうことでは言い表せないぐらいの感情をくみ取ることができたそうです。「これから私たちに何ができるか、真剣に考えて行かなくてはいけない」と話します。
「運」が生死を分けた方々も大勢いらっしゃいました。そして、震災を経験した人もそうでない人も、震災後に生まれた人も、阪神・淡路大震災へのストーリーはそれぞれで、その人その人にしか語れないこと。それは尽きることなく、無限に広がって行くものだと思います。
主催者のNPO法人の代表、藤本真一さん。昨年は「発信の拠点。ここはきょうからスタート」と話していましたが、今回は「1年でも長く続けることに意味があるのだと再確認した」と、その意義を強調しました。
そして「追悼行事ではあるが、語り継ぎがいちばん大事。続けるのみ、続けられる土台をつくって行く」…その語り継ぎは、私どもマスコミに与えられた使命でもあります。(了)