「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
コロナ禍での駅弁屋さんの対応は、主に2種類あります。1つは通信販売・冷凍駅弁の開発による販路拡大。もう1つは地元密着を進め、ドライブスルーや郊外店などの展開。そのなかにあって富陽軒の石井代表取締役は、30年前の経験から、従来の延長線上にある拡大戦略だけでは、いずれ無理が来ると警鐘を鳴らします。100年後へ駅弁文化をつなぐため、これからどんなことをしていきたいか、たっぷりとお話しいただきました。
駅弁屋さんの厨房ですよ! 第27弾・富陽軒編(第6回/全6回)
東海道本線富士駅に、静岡方面からの普通列車熱海行が入って来ました。この地域で生まれ育った筆者は、富士駅のそばにあった大型スーパーへしばしば出かけていました。帰りが遅くなって夕方6時半を回ると、「さくら」のヘッドマークを掲げたブルートレインが、富士駅をゆっくりと発車して行くのが見え、いつかは乗ってみたいとワクワクしたものです。昔もいまも、列車が富士駅手前のポイントを通過して行く大きな音が旅情を誘います。
富士駅、新富士駅などの駅弁も手掛ける富陽軒の石井大介代表取締役(72)は、子どものころ、富士駅の改札口で人を待つのが好きだったと言います。列車到着よりかなり早い時間に駅に着き、人の流れを見ながら人を出迎えていたのだそう。そんな石井代表取締役、このまちに関わった人たちが、思い出とともに再び訪ねたくなるような駅弁屋さんでありたいと話します。富陽軒・石井代表取締役のインタビュー、いよいよ完結編です。
●コロナ禍だから、駅弁作りの「原点」をしっかりと見直したい!
―コロナ禍で駅弁の需要が減っているなか、新たな食材発掘をされている富陽軒ですが、再びシフトチェンジすることはありますか?
石井:30年前、団体需要がなくなったあと、富陽軒もさまざまな駅弁大会に出て、販路拡大を図った時期がありました。静岡県内のスーパーに弁当売場を設けていただいたこともあります。ただ、販路拡大は一時はいいのですが、いずれ(無理が来て)商売は成り立たなくなってしまいます。当分は華やかな場所でものが売れる風は吹きそうにありません。だから、コロナ禍では弁当作りの原点を見つめ直し、食材の発掘を“勉強”し直しているんです。
―ユニークなコロナ対応ですね?
石井:富陽軒のようなコロナ対応は、他社さんにはあまりないと思います。無理して頑張っても、駅弁全体の疲弊につながる懸念があるからです。従来の(資本主義的発想の)延長線にある販路の開拓では、本質的解決にならないように思います。いまは東京でどこの弁当も買えますが、次の時代は変わることでしょう。極端な話、どこでも駅弁が買えてしまうと、(お客様にとっての)ありがたみがなくなって(駅弁文化が消費されて)しまうんです。やっぱり「ふるさとは遠きにありて思うもの」なんです。
●駅弁屋さんは「みんな違う」ことが大事!
―次の100年、石井社長は「富陽軒」をどのように進めていきたいですか?
石井:まずは、30年後に「富陽軒」が生き残っているためには、自然を大切にして地元の食材をしっかり使った弁当を作っていくしかないと思います。そして、富士を訪れて下さった方が懐かしいなぁという気持ちになって、思わず手に取りたくなる、そんな駅弁の売り方をしていきたい。駅弁店としては、「正直」「寛大」といったものが、これからの目指す道だと考えています。
―これから、ニッポンの「駅弁」は、どのようになっていくと考えていますか?
石井:東海道新幹線は新幹線のなかでも海のそばを通っています。南海トラフ地震が起こると、津波被害等で長期間、東西の流れが止まり大打撃となります。富士山もいつ噴火するかわかりません。大きな河川の多い静岡では豪雨被害も増えています。「いつ何が起きてもおかしくない」という心積もりですので、設備投資には慎重にならざるを得ません。各社がさまざまな生き残り策を模索していくことが重要です。みんな違う形で強みを磨いていれば、天変地異が起こっても、どこかは生き残ることができるのではないかと考えています。
●「このまちでいちばんの弁当屋さん」を目指して!
―石井代表取締役は、どんな形で、「駅弁」を盛り上げていきたいですか?
石井:「郷土」というものを、しっかり売っていきたいと考えています。可能なら地元の道の駅などでも販売できるようにしていきたいです。その意味でも、「地元産」にできるだけこだわった駅弁作りがより大事になると思います。その地元の幸がたっぷり詰まった駅弁を手に取っていただいて、お客様に「このまちでいちばんの弁当屋さん!」と言っていただけることを目指したいと思います。
―石井代表取締役お薦め、富陽軒の駅弁を“美味しくいただくことができる”車窓は?
石井:富士山を眺めて召し上がっていただきたいです。ゆっくり見られるのは身延線でしょうか。富士から1つ目の柚木を出て竪堀、入山瀬にかけて潤井川(うるいがわ)の鉄橋を渡る辺りが、とても美しい景色が楽しめます。ただ、富士駅からは近く、富士宮にはすぐ着いてしまいますので、できれば甲府行の列車に乗っていただいて、西富士宮の先の富士山もじっくりと楽しんでいただけたらと思います。
富陽軒が拠点とする地域で生まれ育った筆者は、最初にいただいた駅弁も富陽軒でした。昭和54(1979)年秋、まだ3歳のころでしたが、富士駅を11時前に発つ普通列車東京行で、母が買った助六ずしとポリ茶瓶のお茶を分けてもらった微かな記憶があります。ただ、「旅の思い出とともに再び訪ねたくなる駅弁屋さんでありたい」という、石井代表取締役の言葉に、新富士駅の売店でまず手に取ったのは、「静岡産牛すき弁当」(1080円)です。
「静岡産牛すき弁当」で思い出すのが、富士駅で昔、販売されていた「牛べんとう」です。アルミホイルの容器に、牛のすき焼き風煮が載ったご飯が入っていた駅弁。30年程前の中学生のころ、昼前に富士を発つ急行「東海2号」に乗った際、初めて小遣いで購入した駅弁が当時600円だったと記憶している「牛べんとう」でした。鉄道の旅を楽しんだことがある方なら、きっと、“最初の駅弁”ってありますよね?
【おしながき】
・白飯
・牛すき煮 グリーンピース
・玉子焼き
・紅生姜
いまの「静岡産牛すき弁当」は、昔の「牛べんとう」とは、名前もパッケージも異なります。でも、味わっていくうちに鼻に抜ける香りから、30年ほど前の夏休み、富士と沼津の間で、急行列車の窓から眺めた千本松原の風景が甦ってきました。思わず「これぞ富陽軒の味!」と声に出しそうにもなりました。私自身も改めて、「100年続く駅弁屋さんのあるまち」に生活圏があったことは大きな幸せであり、ふるさとの大きな誇りと感じることができました。
富士身延鉄道(現・身延線)の身延開業を機に、徳川家の家臣にルーツを持つ石井家によって創業され、今年(2021年)100周年を迎えた富陽軒。石井代表取締役が見せて下さった関係者向けの100周年記念品には“僕たちは各駅停車の「B列車で行こう」”と記されていました。時代のさまざまな風を受けながらも、一本筋の通った堅実な経営で「駅弁文化」を守ろうとする姿勢がそこにあります。新幹線「こだま」のように、あるいは身延線のように、各駅停車でも自分のペースを見つけて歩むことが、これからは必要なのかも知れません。
近年、都市部に暮らしている方には、ターミナル駅へ行けば全国の駅弁が全て買えると“錯覚”されている方も多いですが、必ずしもそうではないということ。それぞれの駅弁屋さんには、みんな個性があって、営業のスタンスは違うということ。その違いを見つけるのもまた旅。いい時期が来たら人混みを避け、富士山を眺めながら、駅弁とともにのんびりと、各駅停車の旅を楽しんでみてはいかがでしょうか。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/