東海道本線・富士駅は新幹線が停まらないのに、なぜ駅弁が売れたのか?~富士駅弁・富陽軒

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【ライター望月の駅弁膝栗毛】
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。

明治22(1889)年の全線開通以来、日本の東西を移動する多くの人やものを運んできた東海道本線。首都圏と西日本を結ぶ多くの長距離列車が運行され、沿線の駅弁業者は、大いに潤いました。一方で信仰文化のある富士山周辺へは、全国各地から宗教団体の団体臨時列車が運行されてきた歴史もあります。そんな昭和30~50年代の駅弁事情を富陽軒の石井大介代表取締役に訊きました。

285系電車・寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」、東海道本線・吉原~東田子の浦間

285系電車・寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」、東海道本線・吉原~東田子の浦間

駅弁屋さんの厨房ですよ! 第27弾・富陽軒編(第3回/全6回)

製紙工場の赤い煙突をあとに、日本唯一の定期夜行列車となった寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」が、14両編成で終着・東京を目指して早朝の東海道本線を上っていきます。昭和39(1964)年の新幹線開業後も、ブルートレインをはじめ、東京からのグリーン車を連結した長編成の普通列車が行き交ったこの場所も、いまは短編成の普通列車が主役。早朝・深夜のサンライズが通る時間だけが、往年の東海道を感じさせてくれる瞬間です。

寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」も停車する東海道本線・富士駅。ここを拠点に石井家のルーツ、江戸・巣鴨ゆかりの「いなりずし」をはじめ、数々の駅弁を手掛けて、100年を迎えたのが株式会社「富陽軒」です。昭和57(1982)年からトップに立つのは、3代目の石井大介代表取締役(72歳)。前回の富陽軒誕生秘話に続いて、今回は昭和30年代、駅弁黄金時代の話題を伺いました。

富陽軒・石井大介代表取締役

富陽軒・石井大介代表取締役

●立ち売り、車内販売もやっていた昔の富陽軒

―富士駅に駅弁が誕生して100年、私が物心ついたころ(昭和50年代)には、売店での販売になっていましたが、それ以前はどのように販売していたのでしょうか?

石井:もちろん立ち売りです。いなりずしや幕の内弁当などの駅弁だけでなく、アイスクリームも作っていましたし、わさび漬けを大量に仕入れて、小分けの樽に移し替えて販売をしたりしていました。富士駅は急行停車駅でしたので、その時間帯によく売れたと聞いています。いまの駅舎になる前も、しっかりとした駅舎があって、出札と改札が別になっていました。富陽軒も駅のそばにありましたから、私も駅の待合室でよく遊んでいたものです。

―東海道本線に特急・急行が多く走っていた時代は、静岡でも駅弁屋さんごとに区間を区切って車内販売をしていたそうですね?

石井:富陽軒もやっていました。駅弁屋さんで乗車する区間が決まっていたんです。私も学生時代は東京に出ていましたが、富士に戻ってきたときには、準急「東海」や準急「ながら」といった列車が東海道本線を走っていましたので、乗り込んで弁当やアイスクリームの車内販売を手伝った記憶があります。だいたい、富士駅から乗り込むと、東は熱海くらいまで、西は静岡くらいまでだったかと思います。

富陽軒に残されている、昔の富士駅における立ち売り風景の写真

富陽軒に残されている、昔の富士駅における立ち売り風景の写真

●東海道が大きく動いた「昭和39年」!

―いまもオリンピック期間中ですが、東海道本線沿線の駅弁屋さんにとって、昭和39(1964)年は、大きく「動いた」年だったのでしょうね?

石井:富陽軒にとっては、いまの富士と柚木(身延線)の間にある社屋に移転した年となります。富士駅前の社屋兼住居だった場所が手狭になってしまったんです。できたばかりのころ、周りは田んぼばかりで、毎年6月から7月ごろになると、ほたるが飛んでいるくらいでした。この年、富士駅もいまの橋上駅舎になりました。身延線は、本市場回り(東回り)の時代でしたが、準急「富士川」が走り始めた年でもありますね。

―この年、新幹線が開業して、東海道沿線の駅弁業者は、従来の車内販売も叶わず、販売には苦労されたと聞いたことがありますが、新社屋に移転し、生産能力を拡大した背景には何があったんでしょうか?

石井:宗教団体さんの臨時列車が多く運行されていました。東日本からの方は、在来線経由の団体列車を利用されて、身延線・富士宮駅へ直接お越しになりました。西日本の方々は、新幹線開業後は静岡駅、のちに新富士駅までお越しになって、バスに乗り換えられていました。とくに東北方面からお越しの方は、新幹線・東京駅に広い待ち合わせスペースがなかったこともあって、夜行の臨時列車を利用されていました。

準急「東海」の系譜を受け継いで東京~静岡間で運行された特急「東海」(1996~2007年)。東海道本線・富士駅(2007年撮影)

準急「東海」の系譜を受け継いで東京~静岡間で運行された特急「東海」(1996~2007年)。東海道本線・富士駅(2007年撮影)

●昭和の富陽軒を支えた「団体列車」!

―(現・富士宮市出身の)私も普段は湘南電車で走っているグリーン車を2両連結した11両編成の電車が身延線に入ってくる風景をよく見ていましたが、この団体臨時列車が1本運行されると、どのくらいの駅弁の需要があったんですか?

石井:在来線の臨時列車が1本運行されると、数十万円くらいの売り上げがあったと思います。団体待合スペースでは、お客様が並んで次から次へお弁当を手にされていく感じでした。駅弁もできるだけお釣りが出にくい価格にして、お金のやり取りが煩わしくならないようにしていました。翌日まで1日以上かかる長距離をご乗車になるお客様もいらっしゃるので、ポットも一緒に持って行って、お茶やカップみそ汁も合わせて販売していましたね。

幕の内弁当

幕の内弁当

昭和から平成にかけて、全国各地から身延線・富士宮駅へ運行された団体臨時列車。このお客様に向けて富陽軒が製造・販売した駅弁は、「お弁当」「お寿司」といった形で、かなり品目を絞り込んでいたのだそうです。団体の皆さんもきっと召し上がったに違いない幕の内駅弁。現在、新富士駅などでは「特製 幕の内弁当」(880円)が販売されています。葛飾北斎の「赤富士」パッケージになったのは、平成27(2015)年6月からです。

【おしながき】
・白飯
・鯖の照り焼き
・蒲鉾
・玉子焼き
・チキンカツ
・海老フライ
・海鮮しゅうまい
・筑前煮(椎茸、人参、絹さや、ごぼう、蓮根、こんにゃく、がんも)
・肉味噌 グリーンピース
・しば漬け
・わさび漬け

幕の内弁当

幕の内弁当

富陽軒の幕の内は、焼き魚・蒲鉾・玉子焼きの“三種の神器”がしっかり入った正統派。鯖の照焼き、チキンカツ、海老フライ、そして、静岡らしくわさび漬けなど、基本を外さない構成はいただいていて嬉しくなりますね。富陽軒自慢の筑前煮は、椎茸やこんにゃくなど、しっかり芯まで甘めの煮汁がしみ込んでいて、白いご飯がよく進みます。同じく肉味噌も、ご飯のお供に最高。しっかりお腹にたまって元気が出る幕の内です。

313系電車・普通列車とすれ違う373系電車・特急「ふじかわ」、身延線・富士宮~源道寺間

313系電車・普通列車とすれ違う373系電車・特急「ふじかわ」、身延線・富士宮~源道寺間

かつて、団体臨時列車が多く運行された身延線の富士~富士宮間。昭和40年代には、富士市内の交通渋滞緩和と合わせ、いまの西回りルートとなり、複線化も行われました。これで東京方面からの列車が直通しやすくなった一方、静岡発着の急行「富士川」、いまの特急「ふじかわ」は、富士で進行方向が変わることになりました。ちなみに富士市内の身延線旧線跡は「富士緑道」として遊歩道になっているので、気軽に散策が楽しめます。次回は、東海道新幹線・新富士駅開業後のお話を伺っていきます。

(参考:広報ふじ・昭和42年12月5日号ほか)

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

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