「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
かつて、駅弁は駅のプラットホームにおける「立ち売り」が基本でした。駅弁が売れる駅は、概ね「停車時間が長い駅」。北陸本線の敦賀駅は、昭和30年代まで木ノ本~敦賀間と敦賀~今庄間の2つの峠越えの間に位置し、機関区が置かれ、補助機関車の連結で、多くの列車が長時間停車しました。そんな敦賀でよく売れた名物駅弁が、「元祖鯛鮨」。なぜ、敦賀に鯛を使った駅弁が生まれたのかを探りました。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第32弾・塩荘編(第3回/全6回)
683系電車の特急「サンダーバード」が長い北陸トンネルを抜け、敦賀に入って来ました。北陸トンネルは、昭和37(1962)年6月10日に開通。今年(2022年)で60年の節目を迎えます。この開通によって北陸本線の敦賀~今庄間は新線に切り替えられ、杉津(すいづ)経由の旧線は廃線となりました。また、これに先立って、木ノ本~敦賀間の新線も開業。複線化も行われ、昭和30年代、敦賀周辺の北陸本線は大きく変化しました。
敦賀~今庄間の旧北陸本線には13のトンネルがありました。うち11のトンネルが現在も残されていて、平成28(2016)年には「旧北陸線トンネル群」として国の登録有形文化財になりました。その多くは自動車道に転用され、いまも地域の暮らしに活用されています。なかでも「曲谷トンネル~芦谷トンネル~伊良谷トンネル」の連続した3つのトンネルは、トンネルから次のトンネルが見える区間として知られています。
(参考)敦賀観光協会ホームページほか
敦賀~今庄間の旧北陸本線は、敦賀湾を一望できる絶景区間として知られました。いまも、トンネルとトンネルの間で海を望める区間があります。また、この区間にあった旧・杉津(すいづ)駅は、大正天皇がお召列車で通りかかった際、絶景に見惚れたと言います。跡地は北陸自動車道・杉津PA(上り)となっており、ドライバーさんの疲れを癒しています。その昔、敦賀で駅弁を買い求めた人たちも、この景色を眺めていただいたことでしょう。
明治36(1903)年から敦賀駅の構内営業者として駅弁を製造・販売している「株式会社塩荘」。明治から昭和の戦前にかけては、日本と大陸を行き来する人で敦賀駅は大いににぎわったと言います。平成9(1997)年から、塩荘のトップとして経営を担っているのが、5代目・刀根荘兵衛代表取締役。今回は、名物駅弁「元祖鯛鮨」の誕生秘話と昭和30年代の駅弁黄金時代の話を伺いました。
●補助機関車の連結で長時間停車の敦賀駅、立ち売りは大盛況!
―明治の敦賀駅はスイッチバック構造で機関車の付け替えがあって、駅弁がよく売れたそうですが、その後はどうだったんでしょうか?
刀根:敦賀駅のスイッチバックが解消されても、機関車の連結のための長い停車時間は変わりありませんでした。木ノ本~敦賀間も、敦賀~今庄間も険しい山越えでしたから、補助機関車を必要としたんです。所要時間はいまと比べ物にならないほど長いものでした。昭和30年代の新線開通で、列車の停車時間が減って、立ち売りは厳しくなりましたが、便利になったことで、鉄道利用者はどんどん増えて、旅行需要が高まっていきました。
―駅弁の立ち売りは、とても売れたでしょうね?
刀根:最盛期は、売り子さんだけで10人以上いました。弁当を売る人、お茶を売る人と分業していました。しかし、北陸本線の電化が進んだことで、列車も、窓が開く急行列車から窓が開かない特急列車が中心となり、停車時間も短くなってきました。立ち売りは、昭和60(1985)年ごろ、国鉄の終わりごろまで続けていたと記憶しています。最後は、立ち売りのなり手が居ませんでした。そこでホーム売店での販売に移行していったんです。
●2社で行っていた北陸特急の車内販売!
―車内販売も手掛けられていたんですよね?
刀根:塩荘は、北陸本線の米原~福井間で車内販売を担当していたと記憶しています。ただ、国鉄も1つの列車で一貫したサービスを求めましたので、金沢鉄道管理局管内の各業者が共同出資して「金鉄構内営業」を作りました。当時は主要駅に営業所を設け、行路を組んで、販売員が乗り込んでいました。国鉄時代は常にお客さまへのサービスは一定水準でという考えでしたので、早朝から深夜まで、特急列車には全部乗務しました。
―昔の北陸特急は食堂車も連結されていましたが、車内販売ではどのようなものを販売したんですか?
刀根:車内販売も1つの列車に日本食堂(当時)と金鉄構内営業の2社が乗り込んでいました。雑貨は(食堂車を担う)日本食堂、弁当とお茶は金鉄構内営業で棲み分けていたんです。その後、日本食堂と金鉄構内営業の車内販売を統合することになり、後年、北陸特急の車内販売で親しまれた「北陸トラベルサービス」が生まれました。車内販売も多い日は1000食くらい出ました。日曜日は2000食なんてこともザラでしたね。
●「きす鮓」から生まれた「元祖鯛鮨」!
―車内販売でも「元祖鯛鮨」などを販売されたかと思うんですが、そもそも「元祖鯛鮨」は、どのようにして生まれたんでしょうか?
刀根:昔は「きす鮓」を販売していました。魚のキスは夏によく獲れて、冷蔵技術も未発達でしたので、夏季限定駅弁で販売していました。ただ、キスは時間が経過すると、匂いが強くなる魚でした。味も淡白であまり売れ行きはよくなかったようです。そこで祖父の代に、敦賀周辺の海で、1年を通して獲れるご当地性のある魚を使った押寿司を作ることになり、注目されたのが「鯛」だったんです。
―確かに、敦賀周辺では「小鯛のささ漬」が名物ですね。
刀根:昔は敦賀湾で手の平サイズくらいの小鯛がよく獲れたんです。この辺りでは「メンカ」、いまは「レンコダイ」と言います。皮が柔らかいので、少し伸ばしてやると、とても美味しくいただくことができました。そのころは全部自社で活きのいい鯛を仕入れてうろこを取り、3枚におろしてひと晩塩に漬けて、寝かしました。それを酢につけて鯛鮨としていたんです。(戦災で昔の記録がありませんが)きす鮓も鯛鮨も並行して販売していたようです。
北陸本線の各列車が、峠越えが続く木ノ本~敦賀~今庄間を通過するため、長時間の停車を必要とした敦賀駅。そんな昔の鉄道風景に思いを馳せていただくなら、「元祖鯛鮨 復刻版パッケージ」(1100円)がお薦めです。昔は全て自社製でしたが、いまは分業を進め、塩荘のレシピをもとに、小鯛のささ漬を作っている業者に小鯛の加工を委託しています。塩漬けされたものを仕入れ、塩荘の調理場で「鯛鮨」として仕上げているそうです。
【おしながき】
・鯛鮨(福井県産コシヒカリ・ハナエチゼン、レンコダイ使用)
・ガリ
・醤油
通常の「元祖鯛鮨」との大きな違いは、鯛に発売当初と同じ「メンカ(レンコダイ)」を使用していること。昔は豊漁だった敦賀のメンカも、時代とともに漁獲が減ってきてしまいました。でも、「元祖鯛鮨」の復刻版は、塩荘の原点と言ってもいい駅弁ということで、少し高価なものの、皮が柔らかいレンコダイを使って作られています。通常版よりやや少なめの9カンですが、昔と同じ味とともに旅が楽しめるのは嬉しいですね。
683系電車の「サンダーバード」が、新疋田からの長い坂を、敦賀へ駆け下りていきます。特急「雷鳥」は、昭和39(1964)年の運行開始当初、東海道本線・米原経由で運行されました。10年後に山科~近江塩津間の湖西線が開業、昭和50(1975)年3月から大阪発着の特急・急行列車の多くが湖西線経由で運行されるようになりました。次回は塩荘・刀根社長に、昭和の終わりから平成にかけてのエピソードを伺います。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/