それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
上柳昌彦あさぼらけ 『あけの語りびと』
奥多摩にある、標高929メートルの御岳山(みたけさん)。
山頂の「武蔵御嶽神社」から、少し降りた長尾平(ながおだいら)に、小さな店、「長尾茶屋」があります。
ここを営むのが〝天空のソムリエ〟川﨑直之さん72歳です。
茶屋にワイン?と思うかもしれませんが、こんな話がありました。
川﨑さんの実家は、神楽坂で、代々続く「弓道具店」でした。
ここの弓矢は、映画「七人の侍」などにも使われ、父親が、撮影前の三船敏郎さんに、矢を射る指導をしたそうです。
また、現役時代の王選手や金田投手が、精神面を鍛えるために、弓を習いに来たこともありました。
そんな父を誇らしく思い、いつか自分が店を継ぐものだと思っていた、二十歳の時、父親から、こう言われます。
「これからの時代、弓矢では食っていけない。この店は、俺の代で閉めるから、お前は好きな道を歩け。」
自分の好きな道? 頭に浮かぶのは「山登り」と「お酒」でした。
学生の頃、職人さんにお酒をご馳走になって、家に帰ると、父親が、
「おい、なんで顔が赤いんだ!焼酎を飲んだ?馬鹿野郎!若いうちから、安い酒を呑むんじゃない!」
と怒鳴られた。
まあ、当時は焼酎は安いお酒というイメージしかありませんでしたからね。
今はおいしいですけど、兎にも角にも川﨑さんのお酒好きは、父親譲りなんですね。
川﨑さんが就職したのは、レストランのニュートーキョー。
そこで4年間働き、お金を貯めて、ドイツへ旅立ったのが24歳の時。
横浜から船に乗って、ソ連に渡り、シベリア鉄道と飛行機を乗り継ぎ、当時の西ドイツへ。
ここでレストランのバーテンの見習いと、ワインの倉庫係りで働きます。
そのうち、ワインの美味しさに惹かれていった川﨑さん。
30歳の時、スイス国立ホテル専門学校で、ホテルマンのいろはを学び、「ソムリエ」の資格を取りました。
33歳の時、父が病気だという連絡を受けて、帰国を決意。
就職は、丸の内のパレスホテルに決まりました。
父を元気付けようと、ホテルのレストランに招待。
「私が選んだワインを、うまい!と言ってくれた父の笑顔が、いまも忘れられません。その父も、しばらくして亡くなりました。あれが、最初で最後の親孝行でしたね。」
60歳で、パレスホテルを定年退職した川﨑さんは、もう一つの好きな道、「山登り」に、第二の人生を傾けます。
中でも、年に一度、奥多摩の山々を走る「日本山岳耐久レース」のスタッフとして、大会を支えてきました。
24時間以内に、71・5キロの山道を踏破するサバイバルレース。
その第三関門が、御岳山の長尾平にあって、川﨑さんが、ここの責任者です。
いつもお世話になっていた「長尾茶屋」が、跡継ぎがなく、お店を閉める、と聞いて川﨑さん、父の代で終わった「弓道具店」を思い出します。
(自分の経験が活かせたら)と、茶屋を引き継ぎ、9年前の12月1日から、土日と祝日、自宅の神楽坂を出発し、御岳山へ通う日々を続けています。
茶屋を引き継いだ当初、待てど暮らせど、お客さんが来ない。
ほとんどの登山客は、コンビニで飲み物を買ってくるので、素通り。
暇を持て余していると、御嶽神社の宮司さんがやって来て
「川﨑さん、ソムリエなんだからワインを置いたら、どうですか?私が、あなたに、『天空のソムリエ』という名を授けますよ。」
「山でワイン?水も売れないのにワインが売れるのかな?」
半信半疑で、ワインを仕入れて、並べてみました。
すると、このワインが、山から下りてきた登山客に好評で、特に、北ドイツ産の「ホットワイン」が、山ガールに大人気!
いつしか「天空のソムリエ」が知られるようになり、週末「長尾茶屋」は登山客や参拝客で賑わうようになりました。
川﨑さんは言います。
「私は、江戸っ子なんで、あしたのことや、難しいことは、考えないタチでね、父の言葉通り、好きなように生きてきました。座右の銘?ドイツのビアホールで見つけた言葉かな。『ニヒト デンケン ゾンデン トリンケン』。私なりに訳すと、『ごちゃごちゃ言わずに、どんどん飲め!』」
もう時期、梅雨が明けると、「長尾茶屋」に、忙しい夏がやって来ます。
2016年6月22日(水) 上柳昌彦 あさぼらけ あけの語りびと より
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
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