「国技館」の由来をご存知ですか?【ひでたけのやじうま好奇心】

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先週は「大相撲・有楽町場所」という企画をお送りしましたが、きょうのやじうま好奇心は、その大相撲が行われる場所「国技館」がテーマです。

もともと「国技館」という名前は誰が付けたのか?そんなこと考えてもみませんでした。
日本初の国技館は1909年(明治42年)に完成した「両国国技館」。
設計者は日本銀行本店や東京駅の設計者として知られる辰野金吾。
そして気になる「国技館」という名前は、あの板垣退助を委員長とする常設館委員会で話し合われた。

ちなみに板垣退助の案は「角觝尚武館」。尚武の意味は、武道・武勇を重んじること。
しかし委員から「勝負事の勝負」と勘違いされるなどの反対の意見が出て、最終的には作家の江見水蔭という人が執筆した開館式の案内文「相撲は日本の国技なり」という言葉から、年寄で検査役だった3代目・尾車が「国技館」と提案し、それが承認された。
決定後も、板垣退助は、東京朝日新聞に「国技館などという、言う憎い名前を付けたことは自分の不行き届きであった。後の祭りであるが、“武育館”でもよかった」と述べるなど、納得いかなかったそうです。

ちなみに「国技」という言葉が初めて使われたのは江戸時代の化政期(後期)に、囲碁の大会などで「国技」という言葉が使われていたそうです。また明治時代には「相撲」以外も、剣道でも「国技」という言葉は使われていたそうです。

そして「両国国技館」完成後、全国に「国技館ブーム」というのがやってくる。
浅草六区北側にあった12階建ての凌雲閣の隣に、「浅草国技館」というのが、1912年(明治45年)に開館しました。
こちらも辰野金吾が設計したもので、現在の両国国技館よりも縦長。
観覧席は4階にあって、上から下を見下ろす設計。
見づらいなど不評で、相撲の興行はあまり行われず芝居などに使用。
その後、わずか10年余りで、閉館してしまった。

その後も「京都」や「熊本」などで、国技館は建設された。
そして名古屋では1914(大正3)年「名古屋国技館」が名古屋市の中区に開館。
建物は 4 階建て、8,800人収容可能でした。
開館後の翌日から、東京相撲協会による相撲が行われましたが、半分しか客席は埋まらなかった。
その後、名古屋国技館は相撲以外にも、映画やサーカスなどにも使われましたがわずか10年で取り壊し。現在跡地には名城小学校が建っているそうです。

そして名古屋にも国技館ができたということで、黙っていられなかったのが、そう大阪。
1919年(大正8年)大阪市浪速区に「大阪国技館」が作られた。収容人員1万人。
この大阪国技館は、開館当初こそ大阪相撲協会と東京相撲協会による合同興行で人気を呼びましたが、大阪相撲協会が1927年(昭和2年)に解散してしまった。
大阪国技館はその後、1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失。現在は、温泉施設になっています。

またこの「大阪国技館」以外にも、さらに大きい「大阪大国技館」というのもあった。
1937年(昭和12年)大阪市旭区(現在の城東区)にコンクリート4階建てで、収容人数なんと2万5千人。

現在の両国国技館で1万人強なので2.5倍。
双葉山の登場で、全国的に相撲が空前のブームとなっていた頃。
この「大阪大国技館」も準本場所で数回、使用されましたが、1941年(昭和16年)に第二次大戦のため相撲興行が中断。
戦時中は軍関係の倉庫になり、戦争が終わると進駐軍によって解体された。

現在の跡地には、マンションが建っていて「大阪大国技館跡」の看板があるのみ。
住んでいる人も、その場所に2万5千人収容の「大阪大国技館」があったことすら知らないそうです。

4月24日(月) 高嶋ひでたけのあさラジ!三菱電機プレゼンツ・ひでたけのやじうま好奇心」より

高嶋ひでたけのあさラジ!
FM93AM1242ニッポン放送 月~金 6:00~8:00

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