震災から立ち上がる『慶明丸』に、アラスカから帰ってきた浮き玉
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9月1日は「防災の日」! この前後一週間を「防災週間」と呼びます。
「忘れた頃にやってくる」という自然災害の恐ろしさを再認識する。しっかりした準備と備えをする。さらに、それを子どもたちに伝える。「防災の日」は、私たちの生命と身体と財産を守るための大切な日です。
2011年3月11日。宮城県南三陸町の国道398号線沿いの海産物直売所で作業をしていた三浦さき子さん(現在70歳)は、かつて経験したことのない激しい揺れに襲われました。まず頭に浮かんだのは、自宅に残っている年老いた母親。
すぐさま車で家に駆けつけると、老母はベッドにしがみついたまま、「おっかねぇ、おっかねぇ」と震えていました。すでに、高校2年の息子さんがそばに寄り添っていました。さき子さんは、母親を車に乗せて高台に避難させました。
「防災意識は、高いほうだと思っていたんです」と振り返るさき子さん。
1960年のチリ地震による津波が到達した南三陸町では、41名の犠牲者が出ました。これを機に、町では毎年5月24日、津波の避難訓練をしていたといいます。さき子さんは語ります。
「チリ地震のとき、私は小学校6年生でした。床下・床上浸水がありました。でも、その津波は一晩かかって、ようやく日本に届いたんです。何も流されなかった。何も壊れなかった。それが私の体験した津波でした」
自分が知っていた津波と東日本大震災の津波は、あまりにも違うものでした。
ここで思い出されるのが、南三陸町の防災対策庁舎から防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になった町の職員、遠藤未希(みき)さんのことです。彼女は、半年後に結婚披露宴を控えた24歳でした。
東日本大震災による南三陸町の人的被害は、2011年6月22日現在で、死者542人・行方不明者664人。建物被害は、全壊3,166棟、大規模半壊91棟。 三浦さき子さんは、切り盛りしていたレストラン『慶明丸』もご主人が残してくれた自宅も、全てを失ってしまったのです。
「家は、造りがしっかりしていたせいか、そのままの形で流されました。屋根には、息子が乗っていました」
さき子さんは18歳の時、潜水士をしていたご主人、慶吾(けいご)さんと見合い結婚。3男1女に恵まれます。ところがご主人は、37歳の若さで他界。せっかく建てた家には、わずか1年しか住めなかったといいます。
1999年に開いたレストランには、ご主人の慶吾という名前から一文字もらって『慶明丸』と名付けました。海産物の養殖などに使う黄色い「浮き球」をタテに3つつないで、それぞれに『慶』『明』『丸』と書いた店のシンボルもできました。
南三陸町には、季節ごとの素晴らしい味覚があります。冬のワカメ、タコ、夏場のウニ、ホヤ、そして、ヒラメ、鮭、ハモ、アイナメなど豊富な地魚、寒い時期のカキなど、遠方からのお客様も三陸の味を求めて『慶明丸』を訪れました。
その全ては失われてしまったけれど、さき子さんの胸の中には、フツフツとたぎるものがあったといいます。
「みなさんに美味しいものを食べてほしいという想い、沢山のボランティアの人たちに助けてもらった恩返し、そして『慶明丸』という名前に込めた夫への想い。いろんなものに背中を押されて私、決めたんです。もう一度、同じ場所に『慶明丸』を開こう・・・って」
さき子さんのこんな決心を、揺るぎないものにしてくれる出来事がありました。それは、ある日の友だちからの電話で始まりました。
「あんた! テレビ見た? 『慶』って書かれた黄色い浮き球が見つかったんだよ! あれ、あんたの店のでしょ? テレビ局に電話してみなよ!」
その浮き球が、どこで見つかったのか? それを聞いたさき子さんは、飛び上がるくらい驚きました。
はるか5千キロも離れたアラスカ。その無人島で見つかったといいます。さき子さんは、その時の歓びを振り返ります。
「お父ちゃんが、帰ってきてくれたんだと思いました。きっと『新しい店、頑張れよ』と、励ましてくれたんです」
後日、さき子さんの元に返された『慶』の字の浮き球を抱きしめながら、心の中でつぶやきました。
「お父ちゃん、おかえり! また一緒に、がんばろうね!」
上柳昌彦 あさぼらけ
FM93AM1242ニッポン放送 月曜 5:00-6:00 火-金 4:30-6:00
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
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