東日本大震災から9年~千葉県旭市に見る“高齢者にとっての復興の在り方”

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ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(3月9日放送)に、2011年3月11日に千葉県旭市で津波被害を体験した仲條富夫が出演。震源地から離れた旭市の津波の被害について、また、その後の復興の在り方について語った。

東日本大震災から1年 千葉県と旭市が合同で行った「東日本大震災1周年追悼式」で、鎮魂の思いを込めて手を合わせる遺族ら=2012年3月11日、旭市横根の「いいおかユートピアセンター」 写真提供:産経新聞社

東日本大震災、そのとき千葉県旭市は

2011年3月11日、震源地から遠く離れた千葉県旭市は津波の大打撃を受け、死者14人、いまなお、お二方が行方不明となっている。この日夕方5時20分過ぎ、まさかの第3波に飲み込まれた経験は何を物語るのか。その後の復興はどうなったのか——。

刑部岬から望む飯岡漁港(旭市-Wikipediaより)

第2波の1時間後にやって来た津波にのみ込まれた千葉県旭市

飯田)津波の第1波、第2波について、東北における被害はよく語られていますし、さまざまな映像でご存知だと思います。この旭市も第1波、第2波が来なかったわけではありません。特に第1波は堤防を少し超えて来た。当時の海面から、だいたい4メートルくらいの堤防を超えて来て、少し水浸しのところができたため、それらを見た住民の方々も海岸に近い人たちは一時的に避難していました。ただ第1波の後、第2波が午後4時半ごろに来たのですが、それが堤防を越えなかった。そろそろ引いて行くなと、落ち着いたように見えたので家に戻った方も多かったようです。そして、片付けをしていた午後5時20分過ぎ、第3波が街を襲いました。最大7.6メートルに達した第3波の津波。ここで命を落としたという方が多く、千葉県最大の人的被害となりました。この第3波で、自転車に乗っている最中に流されたけれども奇跡的に助かり、その体験を語り部としても伝えていらっしゃる、仲條富夫さんにお話を伺いました。

仲條)自分の経験から言うと、「早く避難してください」と。大袈裟すぎるほど早めに避難して、「何でもなかったね」と笑い話で終わればいい。俗に近所の共助と言いますか、自分が助かるのは当たり前ですけれど、近くを助ける。近所があって共助があるということです。災害に対しては、そういう部分でお互いに共有し合わないとならない。公助というのはご褒美のようなものなのです。10万人いれば、10万人全部を掌握しないと動けませんから。

地震で倒壊したバルディビアの建物(チリ地震(1960年)-Wikipediaより)

1960年にあったチリ地震津波の経験が裏目に

飯田)お聞きいただいたように、早めに避難するというところを強調されています。仲條さんをはじめ多くの方々は、亡くなったご高齢の方を含めて、1960年にあったチリ地震津波を経験しています。いろいろなところで語り部の方に話を聞くと、ご高齢の方であるほど、チリ地震津波のことをおっしゃる。「チリ地震津波のときにこれだけだった」という経験が下敷きになっていて、津波の怖さを語り継いでは来たのですが、一方でチリ地震津波があったために、「あの津波でもこれくらいだったから、ここまで来れば大丈夫」という1つの物差しにもなっていたところがある。それが今回、裏目に出てしまい、判断が間違ってしまった方もいらっしゃったということです。

傾いた電柱(千葉県我孫子市、2011年3月12日撮影)(東日本大震災-Wikipediaより)

「津波は戻る」ことをパニックで気づかず被災

飯田)川沿いや海岸沿いの方々に必要な情報が入らなかった、あるいは大津波警報は出たのですが、「チリ地震ほどではない」と判断されたということもあったのか。飯岡海岸の方々は、津波の恐ろしさが身に染みていた部分もあるので、みなさん1度は避難をしていた。ところが、そこからもう1回戻ってしまった。津波は押し寄せたあと、また戻って来るということを、パニックを起こして気がつけなかった。それで被害に遭った方もいたということを、仲條さん自身も後悔も含めて語っていらっしゃいました。我々アナウンサーも、大津波警報が出たときのアナウンスを研修で叩き込まれます。その1つに「津波は何度でも襲って来ます。何度でも襲って来ます」と言うのですが、その「何度でも襲って来る」というスパンは思ったよりも長く、旭市の場合は午後5時20分。発災が午後2時46分でしたから、2時間半~3時間後です。そのくらい遅く、大きな津波が来ることもあるのだと。私も現場で話を聞いて、想像できないことがあったのだということを改めて思い知りました。

傾いた標識(千葉県浦安市、2011年4月4日撮影)(東日本大震災-Wikipediaより)

高齢者にとっての復興の在り方

飯田)発災から9年が経ちましたが、そこからどう復興したのかという話です。仲條さんご自身も避難所で暮らし、そのあと仮設住宅で暮らして、2011年12月、同じ場所に自宅を再建したという経緯をお持ちです。海からおよそ50メートル、海岸に近いところで、しかも1回は壊れてしまった同じ場所に再建した。どうしてここに、ということを聞いたのですが、これも想像とは違っていて、お金の問題でした。浸水してしまったところの地価がものすごく下がり、一方で高台の地価が上がった。もともと住んでいたところの土地を売って、それを原資に銀行からお金を借りて建てようとしても、お金が足りない。しかも仲條さんは、被災されたときに63歳でいらっしゃったそうです。銀行がお金を貸してくれるかというと、そこもなかなか難しかった。お話を伺うなかで、最後に復興の在り方についても伺いました。

仲條)高齢者になってこういう状況になると、誰がいいとか悪いとかではなく、生きやすいようにみんなで考えなくてはいけない。これは神様が与えてくれた試練なのかなと思いますけれど。

政府主催「東日本大震災8周年追悼式」で、お言葉を述べられる秋篠宮さまと紀子さま=2019年3月11日午後、東京・隼町の国立劇場 写真提供:産経新聞社

高齢者にとっての復興の在り方

飯田)復興の在り方というか、いままでの生活を元に戻そうということがあるではないですか。昔の復興の仕方といまでは、違うのかも知れないですね。

仲條)それを声を大にして言いたいですね。そこは「ジ・エンド」にして、生きている人同士が新たな生き方を工夫して、より無駄を出さないようにして行けば、うまく行くという感じでしょうか。昔だったらダメージを受けたけれど、市や国から補助があって、「これだけ立派なお店ができました」となったかも知れません。しかし、東北もそうだと思うのですが、それは昔のように人がいて初めて成り立つ話です。9年経ってしまったら、60歳の人は69歳に、70歳の人は79歳になってしまうわけです。そうなると、「また家を建てました、人が来てお金を稼ぎました」という復興ではないのです。これからは若い人もいますが、大災害に遭ったとなれば、自分もそうですけれども先がないわけです。

飯田)高齢化、過疎化はもともとあった問題で、そこでの復興です。若い人たちに向けての復興、生活の再建はもちろんあるのですが、同じようなインフラ整備をご高齢の方にも同列でやってよかったのだろうか。マスコミは「復興は道半ばです」と言いますが、そのときの復興というのは、「元の生活を戻す」という一本道の復興だっただけかも知れません。それでよかったのか、9年目になってその問題が顕在化して来たと気づかされました。

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FM93/AM1242ニッポン放送 月-金 6:00-8:00

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