それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
湘南・逗子の中心街に、一軒の洋食屋さんがあります。お店の名前は「洋食ふたみ」。シェフの瀧川健二さんは、1964年生まれの58歳。お父様の孝夫さんからお店を受け継いだ2代目です。
瀧川さんとお父様はともに、横浜・本牧の出身。お父様は米軍住宅施設で洋食に触れたことをきっかけに、シェフの道を志しました。都内の一流ホテルや海外で修業したあと、明治乳業直営のレストランでシェフを務めます。
実は、ブルガリアから初めて日本にヨーグルトを持ち帰ったのは、瀧川さんのお父様。いわゆる「ピザトースト」を考案したのも、瀧川さんのお父様だと言います。
「チーズ料理のパイオニア」と云われたお父様は、1975年に晴れて独立します。かつてあった日比谷三井ビルの地下1階に「レストランふたみ」をオープンさせました。
「ふたみ」というお店の名前は、前からその場所にあったというレストランの名前に由来。当時、日比谷三井ビルは格式が高く、屋号を受け継ぐことが出店条件だったと言います。
「ふたみ」は日比谷という土地柄も手伝って、東京宝塚劇場、日生劇場、帝劇、日劇など、さまざまな舞台に出演する著名人に愛され、行列のできる洋食屋さんとなっていきました。
名物は、何と言っても「オムライス」。もとはメニューにありませんでしたが、玉子料理が大好きだった森光子さんのために、「放浪記」の楽屋へ差し入れたのがきっかけで評判となり、レギュラー商品になりました。
「いま、そこにいるお客様が喜ぶようにつくりなさい」
お父様は、そんな言葉が口癖だったと言います。小さいころからお父様の料理で育ってきた瀧川さんも、自然とその背中を追いかけて、日比谷の地下で腕を磨いていきましたが、日比谷三井ビルの建て替えが決定。15年前の2007年2月、日比谷の「ふたみ」は32年の歴史に幕を下ろしました。
日比谷のお店を閉めたとき、瀧川健二さんには1つの疑問がありました。「どこの飲食店街に行っても、とんかつ屋さんには行列ができている」というものです。
かつての日比谷三井ビルにも、有名なとんかつ屋さん「まい泉」の1号店があって、いつも「まい泉」には「ふたみ」より長い行列ができていました。
瀧川さんは「揚げ物を知りたい」と、改めて大手のとんかつチェーンに修業に出ます。一方、横浜から通っていた日比谷時代は、よくお店に泊まり込んでいました。「できれば自宅から近いところに新たなお店を出したい」と瀧川さんは悩みます。それというのも、お父様が弟子たちに常々言っていた言葉がありました。
「自分の好きな料理をつくりたいのなら、お店を維持しなさい。お店を維持するためには売れるものをつくりなさい」
住宅地に近くても、由緒ある洋食を好んでもらえる街はないか。そんなとき、いつもお店を手伝ってくれていた、逗子出身の奥様の顔が浮かびました。
「古くから別荘地として発展してきた逗子なら、日比谷で培ってきた味に親しみを感じて下さるお客様が多いに違いない」
瀧川さんは横浜から逗子へ引っ越し、日比谷時代以上に、腕に磨きをかけていきます。デミグラスソースは牛すじと新鮮野菜だけを14日間煮込んで、途中7回ほど網でこし、4種のワインを使って仕上げたものが出来上がりました。揚げ物の油も3種類の植物油をブレンドし、胃もたれしにくいオリジナルの油をつくり上げます。
そして、日比谷のお店を閉めてから5年、瀧川さんはお父様に打ち明けました。
「ふたみの名前を継がせて欲しい」
お父様も一回り大きくなった息子を前に、「いいだろう」と大きくうなずきました。
味に自信はあるものの、果たしてお客様は来て下さるのか? 期待と不安のなかでやってきた「洋食ふたみ」オープンの日。お店のシャッターを開けた瞬間……不安は喜びに変わりました。地元や日比谷時代からのファンのお客様が、50人以上も並んでくれていたのです。
2022年12月10日、逗子の「洋食ふたみ」は開店10周年を迎えます。いまもお店はもちろん、テイクアウトのお客様も途絶えることがありません。5年前からはデリバリーも始め、瀧川さんはお店のオープン前におよそ80個の弁当をつくって、20軒近い配達もこなします。
そのお店では、親戚の吉田雄介さんが、瀧川さんの背中を追いかけています。
「この味を次へつなぎたい。いまは、それがいちばん強い気持ちです!」
日比谷の伝統と逗子の皆さんの愛情が融合した「洋食ふたみ」は、きょうも逗子の街に美味しい香りを届けます。
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