「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
鉄道の高速化でいま、重宝される「軽食駅弁」。特にサンドウィッチはその代表格です。日本で初めての「サンドウィッチ駅弁」として知られるのが、明治32(1899)年に誕生した「大船軒サンドウヰッチ」。この駅弁を生み出した大船軒は、どんな駅弁屋さんなのか? そしてサンドウィッチ駅弁誕生のキーマンとなったある人物は? 鉄道開業150年の締めくくりにふさわしく、鉄道草創期の駅弁エピソードに迫ります。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第39弾・大船軒編(第2回/全6回)
青と白のラインを巻いた横須賀線の電車が、鎌倉を代表する古寺の境内を横切りながら、北鎌倉から鎌倉へと向かいます。横須賀線は、明治22(1889)年6月16日に大船~横須賀間が開業。横須賀に海軍の鎮守府が置かれたこともあり、軍事的な重要路線として発展を遂げました。現在は多くの列車が東海道本線を経由して総武本線へ直通しており、首都圏における主要路線の1つとなっています。
横須賀線が分岐する大船駅は、明治21(1888)年11月1日に開業しました。「大船軒の歴史は、大船駅の開業とともに始まります」と書かれたポスターを指し示すのは、大船軒の今野高之代表取締役社長。「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第39弾は、株式会社大船軒に注目します。駅弁膝栗毛では、これまで大船軒の駅弁について掛け紙や「鯵祭」等のイベントを通してご紹介してきましたが、今回は整理しながら深掘りしてまいります。
今野高之(こんの・たかゆき) 株式会社大船軒・代表取締役社長
昭和32(1957)年2月24日、福島県原町市(現・南相馬市)生まれ(65歳)。鉄道会館(現・JR東日本クロスステーション デベロップメントカンパニー)の子会社、東京アール・ビー商事(のちにデリシャスリンクに社名変更)に入社以来、JR東日本の駅ナカビジネス(店舗開発)に携わり日本レストランエンタプライズ(NRE・当時)へ。NREで取締役を務め、令和元(2019)年6月、大船軒10代目の社長に就任。
●創業者・富岡周蔵とは?
―創業者の富岡周蔵(とみおか・しゅうぞう)は、東京の保谷(ほうや、現・西東京市)の出身だそうですが、どんな人物だったと聞いていますか?
今野:子孫の方からは、ハイカラで進取の精神に富んだ人だったと伺っています。(歴史的史料を見ても)アイデアマンだったといいますね。そして、地元を大切にする方だったようです。弊社の近くを流れる川にも、私費を投じて橋を架けていますし。また、大船軒から分かれる形で、「鎌倉ハム富岡商会」を立ち上げた他、さまざまな会社を興す方に援助も行っていました。(プロ野球の球団を持つ)ハム会社の立ち上げにも関わったそうです。
―明治政府とのつながりも強かったようですね。
今野:富岡周蔵の奥様・キンが、(以前、大河ドラマ「篤姫」で注目された)薩摩藩・小松帯刀(こまつ・たてわき)の兄、相良長発(さがら・ながなり)の娘でした。じつはこの2人、もともとは薩摩・喜入の肝付家出身で、それぞれ相良家・小松家に養子に入っていたんです。ちなみに小松家は、子孫が品川駅で「常盤軒」として、構内営業を行うようになりました。私自身も品川の駅ナカ開発に携わり、小松家の皆さんと仕事をしたことがあります。
●横須賀線開業の情報を掴んで、大船へ!
―富岡周蔵は、なぜ大船へやって来たのでしょうか?
今野:大船軒の創業は横須賀線と大きく関係があります。横須賀線は戸塚から分岐する計画があったそうですが、地形などの影響で大船に駅を設けて分岐することが決まります。明治政府は、富国強兵政策で横須賀の海軍を結ぶ鉄道の必要性に迫られていました。富岡周蔵は、東京で呉服業を手掛けたり、陸軍向けの缶詰を製造していたそうですが、その情報を入手して大船駅前に旅館を出したというんです。
―どうして「駅弁」を製造するようになったんでしょうか?
今野:奥様を通じて、薩摩とのつながりも強い周蔵でしたので、この旅館には、横須賀に出入りする政府要人がよく宿泊したといいます。そのなかから大船駅で駅弁を販売しようとなったと考えるのが自然ではないでしょうか。明治31(1898)年5月16日の創業時は、弁当寿し、鮨、茶、玉子、ラムネ、梨・林檎が最初の商品だったそうです。合わせて手荷物運搬業も行っていました。
●誕生! 日本初の「駅弁サンドウィッチ」!
―早くもその翌年には、いまも続く「大船軒サンドウヰッチ」ができるんですね。
今野:サンドウィッチが9個入り20銭で発売されたのは、翌・明治32(1899)年2月です。周蔵に製造を提案したのは、第2代内閣総理大臣も務めた薩摩出身の黒田清隆でした。周蔵は義父の相良長発と暮らしていたこともあり、黒田も大船をよく訪れたようなんです。黒田は欧米を外遊した際にサンドウィッチを食していて、「忘れられない味」として周蔵に語ったといいます。当時は相当ハイカラなものだったのではないでしょうか。
―大船軒から、ハムの会社も生まれたんですよね?
今野:最初のサンドウィッチは、輸入のハムを使っていました。ところが好評を博したことで、輸入のハムでは生産が追い付かなくなり、自前で生産を行うようになりました。その翌年、大船軒のハム部門が独立して生まれたのが、鎌倉ハムのブランドの1つ「鎌倉ハム富岡商会」(現在は別会社)です。当時、鎌倉郡(いまの戸塚、大船付近)では、イギリス人のウイリアム・カーチスが、ハム製造を行っており、この製法を周蔵も学んだといいます。
明治生まれの歴史ある駅弁にふさわしく、レトロなデザインのパッケージとなっている、いまの「大船軒サンドウヰッチ」(530円)。もともと、ハムは本社社屋裏手の洞窟で作られたとも云われ、その後もハム工場は現在の社屋の前にあったそうです。現在の「大船軒サンドウヰッチ」は、埼玉県戸田市のJR東日本クロスステーションフーズカンパニーの工場で作られていますが、昔ながらの製法はしっかりと守られています。
【おしながき】
・ボンレスハムサンド(鎌倉ハム使用)
・チーズサンド
シンプルに鎌倉ハムのサンドとチーズサンドの2種類が楽しめる「大船軒サンドウヰッチ」。パンのふんわりした食感とほんの少しピリッとする辛子マヨネーズに、鎌倉ハムの旨味の3つがうまく組み合わさった伝統の味です。いまは東京駅などでも販売されており、とくに早朝の出発時など朝の軽食としても、とても重宝する存在です。東日本の各新幹線では、一部列車でコーヒーの車内販売があり、買い込んで行けばいいお供になってくれそうです。
いまも首都圏の最新型車両が導入されている横須賀線。かつて、周蔵が作ったハムは、横須賀の海軍にも納められ、軍人たちの重要なたんぱく源として重宝されたと云います。普通の肉は保存がききませんが、ハムであれば長持ちします。加えて、横須賀線の存在が、大船から横須賀への搬入を容易にしました。今回の「明治の大船軒」に続いて、次回は「大正の大船軒」。「鯵の押寿し」誕生秘話を伺います。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/