「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
いわき駅弁の「小名浜美食ホテル」は、駅弁参入前の平成20(2008)年に開店し、わずか2年半あまりで東日本大震災の大きな被害を受けて、建物は全壊しました。しかし、震災から約9ヵ月で奇跡的に再オープンを果たします。その背景には、いったい何があったのか? トップに震災当時の話を訊きました。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第38弾・小名浜美食ホテル編(第3回/全6回)
仙台からの特急「ひたち」が、いわき市の波立海岸沿いを上っていきます。常磐線は、平成23(2011)年の東日本大震災と原発事故で大きな被害を受け、長期間の運休を余儀なくされました。全線で運転を再開したのは、2年半ほど前、令和2(2020)年3月のこと。この海岸に近い久之浜地区周辺でも、津波による大きな被害があり、関連死を含めて、69人の方が犠牲になったと言います。
(参考)いわき市ホームページ
特急「ひたち」が発着するJRいわき駅で、現在、駅弁を手掛けているのが、小名浜港に製造拠点を構える「小名浜美食ホテル(株式会社アクアマリンパークウェアハウス)」です。小名浜美食ホテルは、オープンから約2年9ヵ月というタイミングで津波に襲われました。トップの鈴木泰弘代表取締役は、いったいどのようにして大津波から逃れたのか、そして、再建のご苦労について、お話しいただきました。
●海上保安庁の職員さんの「叫び」に救われた命
―「東日本大震災」では、どのようにして津波から逃れましたか?
鈴木:平成23(2011)年3月11日の午後2時46分には、私は社屋にいませんでした。従業員は決めていた通り店を閉めて、最寄りの避難場所である近くの小学校に避難して、無事を確認して帰宅したと聞いています。その後、私は出先から本社に戻って、建物に入ろうとしたら、当時、弊社の目の前にあった海上保安庁の方が、「大津波ですからいますぐ逃げて下さい!」と大声で叫んで下さったんです。慌てて私も高いところへ避難しました。
―「小名浜美食ホテル」は、どのような被害を受けてしまいましたか?
鈴木:全壊です。1階は全部浸水しました。機械は全く使えません。大津波が収まると、あまりに気になって、車で一度見に来ましたが、水浸しでとても入れませんでした。漁師さんは引き波で自分の船が流されないよう、必死で(陸上の)電柱に結びつけていました。幸い、自宅の浸水は免れましたが、町じゅうにコンテナが流れてきたり、魚市場周辺で冷凍備蓄されていた魚が津波で流れ出して腐ってしまい、壮絶なニオイに包まれました。
●売れるモノは何でも売る! それでも重くのしかかった“二重ローン”
―会社の再建は、どこから手をつけましたか?
鈴木:被災した翌々月の5月くらいに、浸水しなかった街なかに小さな店舗を借りました。そこに仮店舗を作って、従業員に働いてもらうようにしました。小さな食堂と2階で津波の被害に遭わなかった雑貨を売る店です。みんな食い扶持がなくなってしまったので、少しでもお金に換えなくてはと必死でした。当時は30名ほど従業員が居て、さまざまな事情で、辞める方もいましたが、多くはいまも残ってくれていて、主力メンバーになっています。
―再オープンまでの間で、最も苦しかったことは何ですか?
鈴木:お金のやりくりです。3月に被災したので、年度末までに支払うお金がたくさんあり、何とか工面して、月末までに全て支払いを済ませると通帳に数十円しか残りませんでした。でも、このとき頑張ったおかげで、どの取引先も営業再開に協力して下さいました。ただ、オープン2年ちょっとで全部だめになってしまいましたので、最初に建てたときのローンが残っていました。そこに再建のための借金をしたため、いわゆる“二重ローン”になりました。
●地元の皆さんに支えられて、気合の再オープン!
―それでも、平成23(2011)年12月に再オープンを果たされましたね?
鈴木:凄いでしょう(笑)。小名浜美食ホテルとアクアマリンふくしま、いわき・ら・ら・ミュウは、向こう3軒両隣のような関係です。話し合いを重ねて「来年の正月は、みんな揃って開けましょう!」と“紳士協定”が結ばれました。まず、アクアマリンふくしまが8月に営業再開しました。魚もいなかったんですが。いわき・ら・ら・ミュウも11月に開けました。そこで私も「12月に開けます」と言って、何とか年内に間に合わせました。もう、心意気だけですね。
―お客様はいらっしゃいましたか?
鈴木:“復興支援”として多くの方にお越しいただきました。当時は震災バスツアーがよく組まれ、被害の“視察”を受けました。地元でも“震災語り部”というスタッフを揃え、体験談をお伝えしました。ただ、特需は再オープンから半年ほどで、その後は震災前の約3分の1に落ち込みました。地元の皆さんには本当に支えていただきました。ある団体の皆さんは、宴会の必要もないのに、わざわざ弊社で宴会を開いて下さったこともありました。
平駅時代からの駅弁業者・住吉屋が、平成17(2005)年に営業を終了し、平成27(2015)年に小名浜美食ホテルが駅弁に参入するまでの10年間、いわき駅では、さまざまな業者の弁当が販売されました。なかでも、地元のシーフードレストランによる名物のカニピラフが販売され、いわきの駅弁文化は何とか保たれました。この歴史を踏まえて、小名浜美食ホテルでも、オリジナルの味で駅弁の「かにピラフ」(1200円)を製造しています。
【おしながき】
・カニピラフ(ご飯、ズワイガニ)
・きゅうり野菜酢漬け
ズワイガニの身と秘伝のエキスをたっぷり使って炊き上げているという、小名浜美食ホテルの「かにピラフ」。見た目は比較的コンパクトですが、手に取るとずっしり重みを感じます。ふたを開ければ、たっぷりのカニの身と、香りよくパラっと仕上げられたピラフのごはんに、どんどん箸ならぬ、先割れスプーンが進みます。いわき・湯本・泉の各駅のNEWDAYSにおける販売はもちろん、冷凍弁当として通信販売も行われています。
常磐線は、東日本大震災と原発事故の影響で、約9年間にわたって一部区間で運転を見合わせました。いわきと仙台の中間にある原ノ町駅(南相馬市)には、震災当日・午後3時9分に、特急「スーパーひたち50号」として発車する予定だった車両が留め置かれ、勝田の車庫に帰ることができないまま、5年後に撤去、解体されたと伝えられています。次回は、鈴木社長に「駅弁」に参入した経緯について伺います。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/