いまから120年前、秋田の駅前旅館が「牛めし」を作った理由

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【ライター望月の駅弁膝栗毛】
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。

いよいよ始まる「鉄道開業150年記念ファイナル JR東日本パス」の旅。お得なきっぷをきっかけに、秋田へ足を伸ばす方も多いと思います。せっかく秋田駅へ足を運んだなら、ご当地駅弁の1つはいただきたいもの。できれば歴史ある駅弁をエピソードと一緒に味わえば旅情も増すことでしょう。秋田駅随一の歴史を誇る駅弁と言えば、「特製牛めし」。なぜ120年前、秋田の駅前旅館は「牛めし」を作ることになったのでしょうか?

E751系電車・特急「つがる」、奥羽本線・大久保~追分間

E751系電車・特急「つがる」、奥羽本線・大久保~追分間

「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第41弾・関根屋編(第2回/全6回)

秋田~青森間で1日3往復が運行される特急「つがる」。この列車が走る奥羽本線は、福島~青森間を山形・秋田経由で結んでいますが、いまは、区間によって大きく性格が異なる路線となっています。福島~新庄間は山形新幹線の一部。新庄~大曲間は県境を越えるローカル線。大曲~秋田間は秋田新幹線の一部。秋田~青森間は関西と北海道を結ぶ貨物列車も走る“日本海縦貫線”の一部となっています。

秋田駅は明治35(1902)年、奥羽本線の五城目(現・八郎潟)~秋田間の開通と同時に誕生、令和4(2022年)で開業120年を迎えました。これと時を同じくして生まれたのが、秋田駅弁を手掛ける「株式会社関根屋」です。駅弁膝栗毛恒例、「駅弁屋さんの厨房ですよ!」の第41弾は、関根屋の金子達也(かねこ・たつや)代表取締役に、これまでの120年間について、お話しいただきました。

株式会社関根屋・金子達也代表取締役

株式会社関根屋・金子達也代表取締役

金子達也(かねこ・たつや) 株式会社関根屋 代表取締役

昭和45(1970)年7月4日生まれ、秋田県秋田市出身。大学卒業後、食品メーカーに勤務したのち、平成14(2002)年、関根屋入社。平成15(2003)年8月、お父様の後を継いで代表取締役に就任。以来20年にわたって、秋田の駅弁屋さんのトップとして、日々駅弁の製造、新作開発に当たっている。

関根屋のポスターに使われている創業当時の「関根屋旅館」の写真

関根屋のポスターに使われている創業当時の「関根屋旅館」の写真

●関根屋のルーツは、大館の花岡旅館!

―関根屋のルーツを教えてください。

金子:初代が「関根」という苗字だったことに由来するようです。ただ、関根屋の代表者は、代々、「花岡」を名乗ってきました。ルーツはいま大館駅弁を手掛けている「花善」と同じ、大館の花岡旅館です。花岡旅館で働いていた関根清次郎が、鉄道開業と共に秋田市へ来て花岡姓を名乗り独立、秋田駅前に関根屋旅館を開きました。その後も花岡旅館から優秀な人材を秋田に迎え、養子という形で受け継いで、関根屋の代表を務めてきました。

―金子家は、いつごろから「関根屋」に関わるようになったのでしょうか?

金子:関根屋は昭和40年代ごろまで実質的に“世襲ではない形”で受け継いできました。個人としては結婚されていても、自分の子どもに継がせるのではなく、経営に相応しい人材を「花岡家」の人間として招いていたようです。そのなかで平成の初め、私の叔母の義父の花岡省道が、私の父を後継者に指名し、金子姓のまま関根屋を継承しまして、私は関根屋としては初めて“世襲”という形で、20年前から代表を務めています。

大正時代に建てられた洋館時代の「関根屋旅館」

大正時代に建てられた洋館時代の「関根屋旅館」

●鉄道敷設に協力し、秋田駅の構内営業者に

―関根屋は明治35(1902)年、秋田駅開業と共に創業とありますが、そのきっかけは?

金子:関根屋としては明治35(1902)年の創業ですが、その前年から奥羽本線の工事に従事する皆さんに、秋田駅前(西口)で食事や宿を提供するなど、鉄道敷設に協力してきました。このため明治34年創業とする文献もあります。奥羽本線は青森側から開業し、秋田に到達しましたので、既に鉄道が通っていた大館にいた初代は鉄道関係者に通じていて、花岡旅館での実績もあり、秋田駅構内営業につながったのではないかと思われます。

―創業当初、秋田駅ではどんなものを販売していたのでしょうか?

金子:駅弁としては、おにぎりとお茶だと聞いています。その後、幕の内弁当、寿司、菓子、果物、アイスクリーム、酒、ジュースと、順次商品ラインナップを増やしていったと考えられています。いまの場所(秋田駅東口)に移るまで、3度引っ越しをしていますので、その度に昔の資料が散逸してしまったようです。ちなみに、大正13(1924)年には、洋館の建物に建て直しています。

現在の秋田駅~かつて関根屋旅館があった場所は、駅前広場やバスターミナルに

現在の秋田駅~かつて関根屋旅館があった場所は、駅前広場やバスターミナルに

●秋田駅前にハイカラな洋館を構えた「関根屋旅館」

―関根屋旅館は、いまのどの辺りにあったんですか?

金子:関根屋旅館はいま、秋田駅西口のバスターミナルや芝生の公園となっている辺りにありました。その横には何軒か駅前旅館が連なっていました。しかし、(陸軍に隣接した土地ということもあり)、昭和20(1945)年に建物疎開(密集している建物を壊し防火帯を設ける取り組み)が行われ、大正時代の洋館はこのときに失われました。秋田市内は終戦直前、土崎空襲の被害を受けましたが、結果的にまちの中心部では被害を免れました。

―「駅弁」専業となったのは、戦後ですか?

金子:駅前の各旅館は戦後、廃業を余儀なくされたり、他の業種に変わったところもありました。そのなかで関根屋は食事の製造部門だけを残して、地元に密着した「仕出し店」として生き残っていく道を選びました。場所は西口の秋田市民市場の向かい辺りで、いまの東口に移ってきたのは、昭和59(1984)年のことです。

特製牛めし

特製牛めし

●創業時の味を受け継ぐ「特製牛めし」!

―“創業以来変わらぬ味”と銘打って、いまも続く駅弁、「特製牛めし」はどのようにして生まれたのでしょうか?

金子:当時の鉄道利用者は「VIP」が中心でした。このお客様に提供する料理として誕生したのが「牛めし」です。高価な食べ物・牛肉を醤油と砂糖で煮て、その煮汁でこんにゃくを煮て作り上げました。東京や横浜で西洋文化に触れているVIPの宿泊者へ館内の食事や弁当として作られていたと言います。食糧難となった戦時中もひっそり継続し、戦後しばらくして、食糧事情が落ち着いた段階で、正式に駅弁として売り出したということです。

―「特製牛めし」の作り方のこだわりは?

金子:いまも「特製牛めし」は当時の作り方で提供しています。牛肉はまず一度煮てから、2日寝かせます。その上で一度目とは違う別のたれでもう一度煮ます。一度目の牛肉と二度目の牛肉は全く違う味になります。この二度目の煮汁でこんにゃくを煮て白いご飯の上に盛り付けていくんです。手間はとにかくかかっています。いま流行りの“柔らかくてジューシーな味わい”とは、全く別の味ですね。

【おしながき】
・ご飯(あきたこまち使用)
・牛肉煮
・こんにゃく煮
・ぜんまい煮
・がんも煮
・玉子焼き
・紅生姜
・うぐいす豆

特製牛めし

特製牛めし

牛肉を二度煮ることで脂を落とし、保存性を高めていく関根屋の「特製牛めし」(1100円)。一度煮た段階ではとても味が濃く、佃煮に脂が固まったような状態のため、まず食べられないそうですが、再び煮ることで脂がスッと落ちて美味しくいただくことができると言います。このときに落ちた肉の旨味がこんにゃくに沁み込んで、美味しい特製牛めしの出来上がり。秋田の美味しいご飯がどんどん進む、駅弁屋さんの技が詰まった牛めしです。

701系電車・普通列車、奥羽本線・羽後境~大張野間

701系電車・普通列車、奥羽本線・羽後境~大張野間

明治35(1902)年、秋田駅まで開業した奥羽本線はその後、大曲方面へ線路を延伸していきます。そして、明治38(1905)年9月14日、秋田県内の湯沢~横手間が開業して、福島~青森間の全線が開通しました。かつては、寝台特急「あけぼの」や急行「津軽」が全線を走破していた奥羽本線です。次回は、そんな昭和の鉄道黄金時代の駅弁にまつわるエピソードを金子社長に伺っていきます。

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

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