いまも続く“小牛田まんじゅう”、その立ち売り秘話!
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「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
国鉄のころ、汽車が多く走っていた時代は、全国の「鉄道のまち」は大いに賑わいました。宮城県北部の小牛田(こごた)もその1つ。職員の方は三交代で、24時間体制の勤務。旅客だけでなく貨物の取り扱いもあって、駅周辺の食堂や居酒屋も、ほぼ24時間営業で潤ったと言います。そんな小牛田で、明治時代から続く名物が“小牛田まんじゅう”です。今回は唯一残った小牛田の饅頭屋さんに、昔の駅弁のエピソードと合わせて伺いました。
あの名物駅弁はいま(第2弾・小牛田駅、鳴子駅「村上屋」編)
40年ほど前まで、多くの特急列車が行き交った東北本線。東北新幹線の開業に伴って、長距離輸送の役割を譲り、いまは朝夕のローカル輸送と貨物列車が役割の中心です。仙台近郊の東北本線も、松島以北は日中、普通列車が毎時1本程度の運行となります。かつて「鉄道のまち」として栄えた宮城県北部の小牛田(こごた)も、地域の玄関としての役割は東北新幹線・古川駅が担い、小牛田駅の利用者は地元の皆さんが中心です。
東北本線から陸羽東線、石巻線が分岐する小牛田駅には、かつて3軒の駅弁屋さんがあり、名物の“小牛田まんじゅう”を作っていました。いまも小牛田駅前では、唯一残った「村上屋」によって、「山の神まんじゅう」が製造されており、地元の皆さんに愛されながら、小牛田の鉄道文化の歴史を伝えています。特別企画「あの名物駅弁はいま」第2弾は、小牛田駅、鳴子駅の鉄道構内営業を担ってきた「村上屋」に伺いました。
村上正衛(むらかみ・まさえ) 株式会社村上屋 代表取締役
昭和40(1965)年6月30日生まれ(57歳)。宮城県遠田郡小牛田町(現・美里町)出身。村上家は、代々「衛」を通字とし、4代目。平成16(2004)年、お父様の死去に伴って東京から実家に戻り、家業の村上屋を継ぐ。
●小牛田ホテルとのご縁が生んだ、村上屋の構内営業
―村上家のルーツを教えてください。
村上:よくわかっていないのですが、祖父から聞いた話では岩手の方の出身だそうです。岩手は「村上姓」が多いんですよ。曽祖父が、この地域に岩手から来たんだと思います。この曽祖父の奥さん、私の曽祖母が、この近くにあった加藤家の出身でした。加藤家が経営していたのが、小牛田駅の鉄道構内営業を始めた「小牛田ホテル」でした。明治33(1900)年、村上家が饅頭を作り始めたのも、小牛田ホテルからのお声掛けです。
―“小牛田まんじゅう”が生まれたきっかけは?
村上:小牛田の山神社の参詣客向けにリヤカーに載せて、境内で販売していた饅頭が最初です。鉄道開業後、明治27(1894)年ごろから、小牛田駅構内でも小牛田ホテルが、饅頭を販売するようになり、飛躍的に売れるようになりました。小牛田駅は、陸羽東線や石巻線の始発駅になりましたので、山形や三陸から来た乗客が小牛田で一泊して、東北本線の始発列車に乗ることも多かったと言います。
●山神社ゆかりの饅頭が大人気!
―饅頭の名前には、どんなルーツがあるんですか?
村上:“子持まんじゅう”が最初の名前と思われます。小牛田の山神社には「子宝に恵まれる」ご利益があるとされていましたので。ただ、子持まんじゅうという商品名は、最初の会社しか使うことができなかったため、他社の饅頭は少し違った名前で販売されました。そのなかで、駅売りが人気を集め、“小牛田まんじゅう”と総称されるようになったようです。戦前は、東北各地から仙台の駐屯地へ入隊するために列車でやって来た兵隊さんが“最後に食べられる甘いもの”として、駅でよく買い求められたと言います。
―村上屋の饅頭が「山の神まんじゅう」となったのは、いつごろですか?
村上:戦後です。“小牛田まんじゅう”といっても、弊社のように白い饅頭もあれば、黒糖を使った茶色い饅頭もありました。お客様からも「小牛田まんじゅうを買ったはいいけれど、この前食べた饅頭と違う」といった声が寄せられたとも言います。そこで、他社と差別化を図るため、山神社(通称・山の神神社)の承諾を取り、お名前をお借りして、(最終的に)「山の神まんじゅう」と商標登録いたしました。
●鳴子を拠点に作られた、村上屋の駅弁!
―村上屋が「駅弁」を製造するようになった経緯を教えてください。
村上:記録は残っていませんが、駅弁を作り始めたのは、昭和30年代ごろと思われます。こちらも小牛田ホテルさんの助言あっての駅弁作りだったかと。小牛田の構内営業者は小牛田ホテルと弊社、菊水軒の3社がありました。ただ、弊社の駅弁工場は(小牛田ホテルとの棲み分けを図る意味もあって)陸羽東線の鳴子(現・鳴子温泉)にありました。饅頭は小牛田、駅弁は鳴子で製造しましたので、鳴子での販売がメインとなっていました。
―昔、製造していた「駅弁」には、どのようなものがありましたか?
村上:「きのこ弁当」がいちばん有名でした。残念ながら掛け紙は残っていませんが、2000年代に入っても、年配の方が「きのこ弁当下さい」と言って、店にやって来たことがあります。この他に、「こけし弁当」「おにぎり弁当」「幕の内弁当」の全部で4種類がありました。私が子どものころ、学校給食が急遽休止になったりすると、会社から学校に「こけし弁当」が届いて、みんなに羨ましがられた経験があります。
●“推し”の売り子から買う、小牛田のまんじゅう&駅弁!
―昭和のころ、小牛田駅では、まんじゅうと駅弁が大変売れたそうですね?
村上:聞いた話では、昔は駅弁3社あってもみんなすぐに売り切れてしまうほど、駅弁が売れたと言います。駅弁が売り切れるとすぐに売り子さんが本社に戻って、籠にいっぱい積んでホームへ行っていました。ホームには売り子の待合室もありました。お客さんにも“常連”の人がいて、“小牛田に着いたら、あの人から買う”と、決めている人も多かったと言います。いまの言葉でいうと、“推し”の売り子さんがいたわけですね。
―残念ながら、駅弁の製造を辞められた経緯を教えてください。
村上:平成の初め、小牛田ホテルさんが代替わりした際、(構内営業の需要減少に対応するため)駅弁を小牛田ホテルさん、饅頭を村上屋が製造することで、棲み分けを図ることになりました。このため、弊社は鳴子の工場を閉鎖して、饅頭一本に絞りました。しかし、この体制は長続きしなくて、小牛田ホテルさんは後継者がおらず、すでに、菊水軒さんもやめられていたことから、残念ながら小牛田の駅弁は終焉を迎えることになりました。
●唯一残った、村上屋の「山の神まんじゅう」とは?
―いまは、どんな饅頭を作っているんですか?
村上:山の神まんじゅうと子持ちまんじゅう、水まんじゅうの3種類です。子持ちまんじゅうは、なくなってだいぶ経つのにお求めになりたいお客様がいらしたことから、アレンジして復刻させました。常勤は私とパートで6名程度です。先代まで、村上家は経営に専念していて、誰も饅頭を作ったことがなかったんです。私はそれではよくないと思い、当時70歳代後半の職人に頼んで教えてもらいました。その技を活かして機械化し、現在に至ります。
―いま、「山の神まんじゅう」は、どんなところで買えますか?
村上:「山の神まんじゅう」は、小牛田駅前の本店と小牛田駅の美里町総合案内所、古川駅のNEWDAYSでお買い求めいただけます。この他、ヨークベニマル小牛田店、ウジエスーパー美里店、イオン古川店、東北自動車道・長者原SA(下り線)、仙台市内でもお買い求めいただける場所があります。ただ、先方からの求めに応じて、(求められたときだけ)納入しているお店もありますので、その点はご容赦ください。
現在、東北新幹線・古川駅には駅弁の販売がありませんが、この「山の神まんじゅう」の優しい甘さが、旅人の寂しい気持ちを癒してくれるものです。創業時から変わらないという、国産小豆を炊いて、薄皮をかぶせて蒸す饅頭づくり。いまも真夏には蒸気と格闘しながら、伝統の味を守っていると言います。なかには、“子どもを授かりたい”と山神社にお参りして饅頭を買い求め“お陰様で子宝に恵まれました”と、報告してくれるお客様もいるそうです。
かつては、始発駅の小牛田だけでなく、鳴子駅(現・鳴子温泉駅)での駅弁販売もあった陸羽東線ですが、いまは大きな赤字が課題となっており、地域を挙げた利用促進の取り組みも始まりつつあります。そんなときこそ、先人たちがどんな思いでこの鉄路をつないできて、どんな沿線文化を育んできたのかを知ることは、意義があると思います。まずはこの春、ひと口大の小さなお饅頭をお供に、陸羽東線の旅を楽しんでみてはいかがでしょうか。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/