それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
武蔵野の面影が残る木立と、閑静な住宅街が広がる東京・東村山市。市内の青葉町2丁目には、ちょっぴり懐かしい「青葉商店街」が健在です。そのなかで、今年(2024年)1月にオープンしたカフェ……「和國商店」には、平日の昼間でも行列ができています。
お目当ては、日本を代表する建築家の1人・隈研吾さんがデザインしたというユニークな外観です。五角すいの銅板を700枚組み合わせた、まるで魚のうろこのようなデザイン。自転車でやって来る地元のママ友の皆さんはもちろん、なかには情報を聞きつけ、はるばる台湾から隈さんのデザインを一目見ようとやって来る人もいるほどです。
このカフェをオープンさせたのは、内野友和さん・44歳。内野さんは18歳でお父様に弟子入りして以来、この道一筋の板金職人です。当初は工務店などから仕事を受け、家の屋根を直すのが主な仕事でした。夏は灼熱の太陽の下、冬は冷たい風に耐えながら、高い屋根の上で腕を磨きました。
ところが、2008年のリーマン・ショックが1つの転機となります。取り引きのあった工務店や建設会社からの受注が一気に減ったのです。そこで、内野さんは「雨どいの修理」に特化したホームページをつくったり、地元のお宅に1枚1枚チラシをまいたりしながら、少しずつ地元の方の心をつかんでいきました。
やがてお父様から経営を引き継いだ内野さんですが、少しもどかしい思いがありました。
「板金業は衣食住の“住”を担う、暮らしになくてはならない仕事なのに、どんな仕事かあまりわかってもらえていない。もっと魅力的な、誇りを持てる仕事にしたい」
内野さんが新たに取り組んだのは、板金技術でつくりあげた金属の「折り鶴」づくりでした。お土産や調度品として重宝される折り鶴は、天候に左右される屋根の仕事に頼らず、会社の安定にも役立つだろうという読みもありました。実際、金属製の「折り鶴」は、少しずつ海外から人気に火が点いていきます。そんな「折り鶴」が、建築家・隈研吾さんとの「出会い」を導くことになったのです。
2022年夏、内野さんは生まれ育った東村山の青葉商店街を歩いていました。商店街はコロナ禍の影響もあって、シャッターを下ろしたままのお店も増えていくばかり。内野さんは心の底から湧き上がるものを感じました。
「生まれ育ったこの町を何とかしたい!」
そんな思いに応えるように、不動産屋さんが、昔のたばこ屋さんだった建物を紹介してくれることになります。内野さんは、このたばこ屋さんにひときわ思い入れがありました。
板金職人にとって至福のひとときと言えば、10時と3時の「いっぷく」の時間。小さいころ、お父様に頼まれてたばこを買いに走っていたのが、このたばこ屋さんでした。内野さんはふるさとを盛り上げる拠点として、この物件を買い付けます。
そんな折、内野さんはお友達の誕生日祝いに金属の「折り鶴」をプレゼントしました。この折り鶴が、ひょんなことから建築家・隈研吾さんの手に渡ります。そのご縁で隈さんの事務所を訪ねる機会に恵まれた内野さんは、自然と板金へのこだわりや、地元の商店街への思いを熱く語り出していました。
すると、スタッフの方が「いまの話すごくいいから、隈に言ってごらんよ。何とか5分、時間をつくるから」と提案してくれたそうです。ほどなく現れた隈研吾さんを前に、内野さんはスマートフォンに1枚だけ入っていたたばこ屋さんの写真を見せながら、いま自分が思っていることを全てぶつけました。
自分が折り鶴をつくっている人間であること、板金業をもっと魅力的な仕事にしたいこと、そして、ふるさとの商店街を再び盛り上げたいこと……。内野さんの話を一通り聞いた隈さんは、口を開きました。
「それ、ボクも手伝うからやろうよ!」
奇跡のような5分間のプレゼンから1年半あまり。売りに出されていたたばこ屋さんは、隈研吾さんのデザインによってカフェ「和國商店」へと生まれ変わりました。
700枚の五角すいの銅板からなる建物の壁は、光の当たり方や雨のぬれ方によって見え方が変化することから、行列に並んだ方にとっては鑑賞のひとときになっています。地元の皆さんも「商店街の目玉になる建物ができた」と大喜びですが、内野さんはお店のオープンで終わるつもりはさらさらありません。
「日本の板金の技をもっと世界へ発信していきたいですし、板金業の魅力も、もっとわかりやすく伝えていきたいんです」
ふるさと・東村山から世界へ。板金職人・内野さんは地に足をつけながら、もうその先を見据えています。
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