
私が聴いているラジオ番組の一つに、「新日曜名作座」というラジオドラマがあります。月曜の早朝、ニッポン放送に来るタクシーで、聞き逃し機能を使って聴いているんですが、9月から亡くなった西田敏行さんに代わって、段田安則さんが担当されています。今回は、ラジオドラマへの憧れから演劇を始めて、劇団を立ち上げた男性のお話です。

高橋正興さん
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
東京・港区を中心に活動している社会人劇団、「みなとミュージカルカンパニー」。元々は、区の外郭団体が企画した区民ミュージカルで集まったメンバーが、その先も演劇を続けていきたいという思いで、2007年に旗揚げしました。代表を務めるのは、高橋正興さん、東京出身の49歳。会社員としてお勤めをしながら、劇団の運営、脚本作り、演出、出演もしています。

画像提供・高橋正興さん
高橋さんが演劇に目覚めたきっかけは、ラジオでした。中学生の頃、たまたまつけたラジオから流れてきたラジオドラマに引き込まれます。なかでも魅かれたのは、広川太一郎さん、羽佐間道夫さんの渋い声と深い演技。
『自分もラジオドラマに携わってみたい!』
そう思った高橋さんは、大学に進学すると放送研究会の門をたたきます。夢だったラジオドラマ作りだけでなくアナウンス練習にも参加、演技にも目覚めました。卒業後は一般企業に勤めながら、声優の養成所にも通います。そこでできた友達から、港区民ミュージカルのオーディションを紹介されました。
「オーディションって楽しそうだな」と、軽い気持ちで受けてみると、まさかの合格。でも、高橋さんは、それまで人前で唄ったことも無ければ、踊ったこともありません。練習に参加すると、“唄えない、踊れない、ミュージカル俳優”ではシャレにならないと、早速、ほかのメンバーとは別メニューで猛特訓となりました。その厳しい練習を乗り越えて、1200人のお客様を前に舞台に立つと、もう気持ちが高まって、全身の武者震いが止まりませんでした。
『こんな経験は初めてだ!ステージって楽しい!舞台を続けたい!!』
そう思った高橋さんは、劇を作った皆さんとの交流を深めていきます。そんな折、様々な事情から区民ミュージカルの終了が決まったことで、メンバーの皆さんは決断しました。
「もっとみんなと一緒に演劇をやり続けたい!私たちの劇団を作ろう!」
旗揚げした「みなとミュージカルカンパニー」ですが、港区によるサポートの時期が過ぎ、自主的な運営になったことで、メンバーの皆さんには、演技以外にやるべきことが押し寄せます。
台本を用意し多くの舞台スタッフとやりとり、場所を押さえてからの稽古、アマチュアの自分たちで、全ての制作スタッフの仕事をこなしました。大道具、小道具、衣装の用意、チラシ作りやホームページの運営、公演のお知らせはもちろん、チケットもほぼ手売りです。
何とか作品を作り上げて一度公演を終えると、劇団の皆さんはもうヘトヘトでした。あまりの大変さに、「やめます」と申し出るメンバーが一人、また一人と続いていきます。それでも新たに参加してくれる人もいれば、制作を献身的に支えて下さる方もいて、綱渡りの状態ながら、年に一度の公演を続けていきました。

画像提供・高橋正興さん
一方、高橋さん自身にも、演技や作品のクオリティへの欲が出てきます。声優の小原乃梨子さんに弟子入りして、セリフの表現力を磨きました。脚本の専門誌に投稿すると、審査員の作家さんが高く評価してくれたことが自信となって、やがてミュージカルの脚本や演出も自分で手掛けるようになりました。
一年、また一年と続けていくうちに、常連のファンの方が増えていきます。「みなとミュージカルカンパニー」の作品コンセプトは、「おじいちゃんおばあちゃんとお孫さんが一緒に楽しめる」舞台作品。お客さんもお子さん・お孫さんを連れた家族の方が多くいらっしゃいます。
「家に帰っても、子供がずっと劇中の歌を唄ったり、セリフをマネしています」「前に上の子と一緒に来てよかったので、今度は下の子も一緒につれてきました!」

高橋正興さん
そんな声がお客さんから届いて、高橋さんも思わず目を細める機会が増えました。気付けば、今年が演劇生活25年目だという高橋さん。ご自身の“ワークライフバランス”について、こう語ってくれました。
「会社員としてもやり遂げたい仕事があるので、勤めも大事に、懸命にやっています。お芝居も、『ライフワーク』として人生を賭けて積み上げていきたいものがあるんです。二足のわらじは、家族にも負担をかけてしまって大変ですが、それでも自分の中に両方があることで人生を後悔なく送れていると実感しています」
オンとオフを切り替えながら、毎日を精一杯頑張る高橋さんの目は、ますます輝きを増しています。