それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
上柳昌彦あさぼらけ 『あけの語りびと』
アメリカで「ミスター・イエロー・ブルース」の称号を得たブルース歌手、大木トオルさんが、単身渡米を果たしたのは1976年。
実はそれは、音楽にけじめをつけるための旅でもありました。
頑張りすぎから胸の病に倒れ2年半の闘病生活の末、楽器を売り払ったお金を旅費に充てたわけですから、まさに音楽との別れの旅でした。
住んだところは、ロサンゼルスの黒人街の家。
路上のパフォーマーからピザ屋の店員まで、歌のうまい連中がゴロゴロいる街。
大木さんは「自分もブルースシンガーなんだ。」などとは、とても言い出せませんでした。
その辛い気持ちを、世話になっている家のママに打ち明けた時の言葉を、大木さんは、今も忘れることが出来ないといいます。
「この国でブルースを歌いたいなら、うまく歌おうなんて思っちゃダメ。ただひたすら、魂を込めて歌うのよ。」
初めてのギャラが5ドル。
これを振り出しに、黒人たちとバンドを組み、翌年から全米ツァーを開始。
ミシシッピーのデルタ・ブルース・フェスティバルでは10万人の観客たちを熱狂させ、翌日の新聞には「ミスター・イエロー・ブルース」の見出しが躍っていました。
と、ここまでは、ブルース歌手・大木トオルさんのサクセス・ストーリー。
しかしアメリカでは、仕事で成功しただけでは真の尊敬を得られません。
次に向けられる質問が「で?あなたの“ライフワーク”は、何ですか?」
“ライフワーク”
この言葉を耳にするたび、大木さんの胸に去来する一つの顔がありました。
それは、人間ではなく犬の顔…。
東京・日本橋生まれの大木さんは4歳の頃、言葉が出にくい吃音症を発症。
母親をも自由に呼べない中で、いじめを受け、孤立感を深めていました。
そんなとき、たった一匹の友となってくれたのが、家で飼っていた犬でした。
なかなか出ない大木さんの言葉を、犬だけはジッと待ってくれたのです。
大木さんが12歳の時、一家は離散。家族みんなで夜逃げをするとき、その犬を置き去りにしてきたことが、深い心の傷となりました。
この心の傷が、大木さんが“ライフワーク”に選んだ「セラピードッグの育成」の原点なのでしょう。
国際セラピードッグ代表をつとめる大木トオルさんが、その犬と出逢ったのは1992年。
彼女は5頭の仔犬とともに、松戸市のゴミの集積所に捨てられていました。
後ろ足に障害をもち、泥だらけになりながら必死に生きようとする姿に胸を打たれ、思わず抱き上げた大木さんは、母犬にチロリと名づけました。
大木さんが考案したセラピードッグ育成のための訓練カリキュラムは全部で2年半かかるそうですが、その内容をチロリは6カ月でマスター。
ただ、杖を持った人との歩行訓練が苦手だったのは、棒で叩かれた後ろ足が不自由だったためでしょう。
こうしてチロリは、日本初のセラピードッグになりました。大木さんはおっしやいます。
「これまで39年間のセラピードッグの育成活動で、セラピードッグになれなかった犬は、一頭もいませんでした。どんな犬でもセラピードッグになれるんです」
大木さんが育成するセラピードッグは、癒しの犬ではなく、治療のための犬を目指すといいます。
大木さんはチロリを投入した例を、紹介してくれました。
91歳のそのおじいさんは、要介護5のアルツハイマー病。
家族の顔も名前も分からない。車いすに座ったまま、下の世話も任せきり~という状態でした。
ただ、おじいさんは、犬が大好きだった~という家族の証言を頼りに、チロりに会わせると、無表情だった顔にパッと生気がよみがえり、笑みを浮かべるようになったといいます。
おじいさんは、チロリの名前を知りたがり、呼びたがりました。
そしてとうとう、車いすから4年半ぶりに立ち上がり「チロリと散歩する」とまで、言い出したといいます。
おじいさんが集中治療室へ入った時、犬のチロリはもちろん入室禁止でした。
チロリの顔が大きく写った本の表紙を見せると、
「チロちゃん、ありがとう、ありがとう。」
と何度もつぶやいたというおじいさん。
そのお葬式には、チロリも参列。いつまでも柩のそばを離れようとしないチロリの姿に、人々は涙したといいます。
今、大木さんのカリキュラムで訓練されたセラピードッグたちは1年間でのべ1万2,000人の患者さんを担当しているそうです。
2017年3月8日(水) 上柳昌彦 あさぼらけ あけの語りびと より
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
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