それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
上柳昌彦あさぼらけ 『あけの語りびと』
『福島尚(ひさし)鉄道画集 線路は続くよ』
二見書房から出版された画集が、いま話題を呼んでいます。
写真のようなリアルさで、電車、機関車、貨物列車、電線、信号、砂利、線路、さらに、駅構内、街並み、海岸線など、風景も見事に描かれています。
この画集を47歳になった福島尚さんが出したところ、テレビや新聞などで「天才!」とか「神業!」と持て囃されました。でも、尚さんの父・清さんは、語気を強めて、こう言います。
「いきなり、こんな絵が描けるようになったわけじゃないんです。尚が生まれてから、言葉にできない、いろんな葛藤がありました。」
福島尚さんは昭和44年3,150グラムで生まれました。よちよち歩きの頃から、鉄道が大好きで、家の近くの線路で、毎日、列車を見て過ごしました。
ところが、4歳の頃、幼稚園の先生から、「この子は言葉が出ませんよ」と言われます。
当時、知的障害の「自閉症」は、まだまだ知られておらず、「親の育て方が悪い」と言われるような時代でした。
小学校に入っても、ほとんど話せず、「ありがとう」「おはよう」の単語は言えても、文章にすることはできません。
ある日、小学校から帰って来た尚さんは「ワーッ!」と声をあげ、母のキヨさんを、たたく、ける、腕をかじる、ひどく暴れました。学校で、友達とうまくいかず、家に帰って爆発したのです。
キヨさんは、当時を振り返ります。
「プロレスごっこをしてあげたんです。『いててて、やられた。降参!』と負けたふりをすると、満足して、やわらかい表情になりましたね。それから、息子の強張りをほぐすため体の力を抜く体操を10年続けました。その甲斐あって、気持ちが落ち着いてきたんです。」
尚さんが中学3年生の時、自動車整備士だった父は、手に職をもたせたいと、就職先を探します。
しかし、鉄道の絵ばかりを描いている息子に腹が立ち、「いつまで子供みたいに、絵ばかり描いているんだ!」怒りと、情けなさが混ざり合い、何冊もあったスケッチブックをすべて燃やして、絵を描くことを、やめさせてしまいました。
中学を卒業した尚さんは、電気製品を組立てる会社で働きますが、好きな絵を取り上げられた上、慣れない仕事にストレスが溜まったのか、職場で大暴れ! 社長を蹴っ飛ばして「クビだ!」と言われる始末です。
それでも母のキヨさんが、毎朝、息子を家から送り出すので、「クビだといったのに、また来たのか……」と社長も苦笑い。
その後、ハンダ付けの作業が出来るようになり、クビと言った社長も重宝がってくれるようになりました。
仕事を任され、生活にリズムができた尚さん、父親から、休の日は、絵を描いてもいいぞ、と許してもらいました。
画家への第一歩は26歳のとき。障害者の娘を持つ父親に、「一緒に展覧会をやりませんか?」と誘われたことがキッカケでした。
出展のために作品を額に飾ると「まあ、素敵」とキヨさんが声を上げました。
両親とも、全く絵心がありませんでしたが、このとき、尚さんの才能を感じたそうです。
鉄道画集の表紙になっている尚さんの代表作『首都圏大宮駅』は2004年に、初めて100号キャンバスで挑んだ作品です。
両親の心配をよそに、尚さんは、下書きもせず100号の真ん中に、黒い絵の具で、高崎線の列車の輪郭を描いていきました。
次に、線路、電柱、電線、砂利、そして、周りの風景を描き、色づけは、その逆で、風景から色を塗り、最後に、電車を仕上げます。
できるだけ写真に頼らず、記憶のままに再現するのが尚さんの描き方。レールや列車の直線は、定規を使わず、筆一本で描き上げました。
現在、尚さんは、福祉作業所で、パン作りの仕事をしています。
絵を描くのは、夜と休日だけ。自宅の居間がアトリエ。横で見ている清さんが、しみじみと語ってくれました。
「私も妻も、年老いて来て、これからのことが気にかかります。親として、息子の心配は尽きませんが、ただ、今だから言えるのは、好きな絵を、やめさせなくて、よかった。」
画集のタイトルのように、尚さんの線路は、どこまでも続いています。
2017年2月1日(水) 上柳昌彦 あさぼらけ あけの語りびと より
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
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