【ライター望月の駅弁膝栗毛】
東北本線・郡山と信越本線・新津の間を結ぶ、磐越西線(ばんえつさいせん)。
特に新津~会津若松間では、キハ40系列の気動車が最後の活躍中です。
今年(2019年)8月には、後継となる新型のGV-E400系気動車がデビュー。
長閑な山村をカラカラと音を立ててのんびりと走る国鉄形気動車の鉄道風景も、思い出に変わっていく日がだんだんと近づいています。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第18弾は、磐越西線の始発駅・新津駅前に本社を構える「神尾弁当部」の神尾雅人(かみお・まさと)社長にお話を伺っています。
じつは神尾家、会津と深いつながりがある家柄。
いったいなぜ、会津ではなく、新潟・新津で駅弁を販売するようになったのか?
まずは、神尾家の“ファミリーヒストリー”から探っていきたいと思います。
●会津藩士にルーツを持つ神尾家
神尾家のルーツは、小田原北条氏の家臣だった時代にさかのぼることができると言います。
しかし小田原合戦で敗れ、やがて、北条の遺臣として、娘の志津が徳川家へ出仕します。
このお志津の方が、2代将軍・徳川秀忠公の目に止まり、1人の男の子を出産。
じつはこの男子こそが、後に初代会津藩主となる保科正之公だったと言われます。
以来、神尾家は会津藩士として、会津のお殿様を支えていくことになるわけです。
時代は下り、戊辰戦争で会津藩は官軍に敗れ、神尾家は三本木(現・青森県十和田市)で、旧・会津藩士と共に開拓に従事することになります。
ここで娘・神尾つねの下に、福岡・博多で共進亭(のちに日本食堂に統合、現・NREほか)を経営し、九州鉄道の設立にも深く関わっていた寺田静男氏の弟・七三氏が婿に入りました。
七三氏は鉄道に関する高精度の情報を得ていたとみられ、北越鉄道(現・信越本線)の開業に商機を見出し、三本木を出て新潟の沼垂(ぬったり、現・新潟市東区)へと進出します。
(参考)「神尾家史」「神尾弁当部創業100年」
―新潟へ来るまでに、いろいろな歴史があったんですね?
神尾家のお墓は、いまも会津にあります。
新潟へ来てからは、沼垂(ぬったり・注)で鉄道開業前から「神尾商店」として商売を始めていたと聞いています。
その後、北越鉄道が国有化された際、国の命令で沼垂から新津へ移ることになりました。
新津は、信越本線・羽越本線・磐越西線が交わる交通の要衝というのがその理由でした。
(注)沼垂は、歴史ある港町にできた明治30(1897)年の北越鉄道開業時の終着駅。その後、新潟駅が開業して途中駅に、短絡線ができて貨物駅となった。(現在は廃止)
―新津へ移られてからもご苦労があったそうですね?
大正3(1914)年、新津駅前に最初の社屋を建てたんですが、大正14(1925)年、新津で大火が起きてしまい、焼けてしまいました。
昭和の初めに、鉄筋コンクリート造りで、レストランもある昭和モダンな社屋を再建するんですが、今度は昭和20(1945)年の建物疎開で取り壊しとなってしまったんです。
戦後、木造の社屋を建て直しまして、平成18(2006)年からいまの社屋となりました。
●駅前の店を守り抜くのは、駅弁屋の「使命」!
―駅前にはこだわりがあるんですか?
新津駅と同じ「新津本町1-1という住所を守りなさい」という父の教えがあります。
じつは駅前再整備では、代替地として新津の工業団地への移転も提案いただきました。
しかし、父は「駅弁屋さんがなぜ“駅前”に必要か」ということを説いて、譲りませんでした。
「神尾弁当部」は昔から軍隊向けの「軍弁」も作ってきましたし、大雪による列車の運休や、洪水などの災害時には、すぐに社員を集めて炊き出しを行ってきました。
(食のインフラの1つとして)この駅弁屋の使命感は、いまも常に持ってやっています。
―いまは「駅弁」一本だそうですが、年表を見ると、昔は結構多角化されていましたよね?
ご存知のように、新津は「鉄道のまち」として、特に新幹線開業までは賑わっていました。
国鉄の官舎が至る所にあり、(鉄道マンは不規則な勤務ですので)、飲食店が繁盛しました。
神尾弁当部でも、昭和30~40年代を中心に新津駅前で茶屋や居酒屋、「グリルかみお」といったレストランなどを展開していたんですが、これが経営を圧迫してしまいました。
このため仕事の見直しを行うなかで、「駅弁」に絞られていくことになりました。
―昭和40年代の苦境を救った「駅弁」があるそうですね?
いまも販売している「さけずし」(980円)です。
発売は昭和31(1956)年ですが、昭和44(1969)年に、プラスチック容器から天然の孟宗竹を使った容器に改めたところ、デパートの催事で大きな人気を集めていきました。
このヒットがきっかけで、神尾弁当部は持ち直すことができたと言います。
残念ながらいまは、衛生上の問題で竹を使うことができず、プラスチック容器となっています。
(神尾弁当部・神尾雅人社長インタビュー、つづく)
現在、「神尾弁当部」で販売されている駅弁のなかで、最も歴史ある駅弁「さけずし」。
昔ながらの綴じ紐をほどき、掛け紙を外して、竹を模したプラスチック容器を開ければ、笹と甘酢が入り混じった独特の香りと共に、鮮やかなサーモンピンクが飛び込んできます。
酢飯には赤紫蘇が入っていて、食欲を一層かき立ててくれる「さけずし」。
60年以上にわたって受け継がれている、伝統の新津駅弁です。
「さけずし」は、安田町(現・阿賀野市)にある神尾社長のお母様のご実家で、代々、正月のごちそうとして出されていた「さけずし」が開発のヒントになったと言います。
ご実家ではひじきをご飯に混ぜ込んでいたそうですが、駅弁化に当たっては保存性の観点から紫蘇に変更されたのだそう。
越後の家庭で受け継がれてきた味を、ぜひ「駅弁」として味わってみてはいかがでしょうか。
小田原・北条氏が治めた関東の地から、小田原合戦・戊辰戦争と時代の大波に揺られて、会津、三本木と回りながら、神尾家がたどり着いた新潟・新津の地。
なかでも、阿賀野川(阿賀川)伝いに会津と新津を結ぶ磐越西線は、「神尾弁当部」の駅弁をいただくには最高の路線です。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第18弾・神尾弁当部編、次回は、昭和から平成にかけての駅弁事情の変化にスポットを当ててまいります。
連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/