青森の藍染めがJAXAの船内着に…斬新な商品開発の秘訣とは
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
中国の古典『荀子』のなかに、こんな言葉があります…「青は藍より出でて、藍より青し」。
「藍(あい)」とは染料として使われる植物のことで、藍で染めあげた布は、藍よりも鮮やかな青色となる。この現象を弟子と師匠の関係にあてはめて、弟子が師匠の学識や技術を越えるという意味になります。
つまり学問や努力の積み重ねで、人は師匠をも超えることができる。荀子はこう言ったわけです。
話は変わって、青森県といえば「りんご」が有名ですが、明治30年代ごろまでは「藍」の栽培が盛んに行われていたと言います。
青森の藍染めの始まりは、徳島からの舟で藍が入るようになったことから。江戸時代には100軒もの藍染め工場が立ち並び、青森県内にはいまも「紺屋町」といった名前が残っています。
藍染めされた布は野良着として親しまれました。津軽の冷たい風を防ぐため、農村の女性たちは、染めた布に幾何学模様の刺繍を入れるようになりました。いまでもそれは青森の伝統文化として受け継がれています。
さて、いまから17年ほど前に「減反政策で休ませている土地を何とかしたい!」と、吉田久幸さんは腕組みをして、広大な休耕田をながめていたと言います。やがて吉田さんの胸にふと浮かんだイメージは、真っ黄色な菜の花畑でも真っ白なソバ畑でもなく、ピンク色の畑。満開の藍の花の情景だったそうです。
「藍の栽培なんてさっぱりわからなかったのに、おかしなものですね」と、吉田さんは振り返ります。
吉田久幸さんは現在、「あおもり藍産業協同組合」の代表理事。「休耕田を活用して藍を植えれば、美しい景色と、藍を活用したビジネスを興せるかも知れない!」というひらめきから、2003年に「あおもり藍産業協同組合」を設立しました。
ところが吉田さんをはじめ、藍の栽培に詳しい人はゼロ! 吉田さんは当時の窮状を振り返ります。
「専門家が1人もいない状態でのスタート。まったくの素人集団でした。あわてて藍についての勉強を始めたり、徳島へ見学にも行きました。ところが、知らないということは悪いことばかりではなかったんです。何もわからない素人だからこそ、型にはまらない自由な発想とチャレンジ精神が生まれました。既存の藍染めの既成概念にとらわれず、布製品から革製品、木製品まで、何でも染めてやろうと頑張ったんです」
従来の藍染めの法被(はっぴ)や、剣道着を想い出してください。使い込んで行くうちに色が落ちて、全体に色の濃淡が出て来る。これを藍染めの味わいや風合いとして、利用者は喜んだものです。ところが素人集団だった吉田さんたちは、とんでもない企てを抱きます。
「よし! 色がさめない、落ちない、そんな藍染めをつくろう!」
これまで藍染めの魅力とされて来たものを捨てて、新しい藍染めに挑戦。まさに「青は藍より出でて、藍より青し」…試行錯誤の連続でした。
藍の冷凍乾燥、温熱乾燥、藍の粉末化。大学の研究室とも積極的にタイアップし、食べ物や食品添加物への藍染めの応用など、何でもやってみました。洗濯機をグルグル回し、色落ちへの挑戦にも果敢に取り組んだと言います。
数年の努力の月日が流れ、2010年。あおもり藍はついに、宇宙航空研究開発機構=JAXAの船内着コンペに参加します。そして、とうとう夢のような話が実現しました。宇宙飛行士・山崎直子さんの船内着として、スペースシャトル搭載品に採用されたのです!
「山崎さんが抗菌性・防臭性、ともにいいと褒めてくれました」と、吉田さんは声を弾ませます。
宇宙への進出を契機に、あおもり藍に対する世界からの引き合いが増加。ファッション、バッグ、靴、腕時計など、高級ブランドとの提携も進みました。
見事によみがえった休耕田。この田んぼが藍の花のピンク色に染まる想像をした日のことを、いまも吉田さんは忘れることなく、あくなき挑戦を続けています。
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