川村康一、31年ぶりにアルバム発売「作らなければずっと後悔する」
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
日本の「シティポップ」が世界で注目を集めている……そんな話をよく耳にします。松原みきさんの「真夜中のドア」や、竹内まりやさんの「プラスティック・ラブ」など、洗練された都会的なサウンドが、日本の若い世代にも新鮮に響いているようです。
そんななか、31年ぶりにサードアルバムをリリースした、シティポップのアーティストがいます。川村康一さん、東京生まれの57歳。音楽との出会いは小学6年生のときで、同級生からこう言われたのだそうです。
「音楽の先生に聞いたんだ、君が学年でいちばん歌がうまいって。今度バンドを結成するから、ボーカルをやってくれない? ただし、この歌を歌えたらの話だけれど……」
渡されたレコードは、ビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」でした。川村さんは、歌謡曲しか知らないピンク・レディー世代。借りたレコードを何度も聴いて、歌の意味もわからずに耳で覚えました。
数日後、同級生の家でオーディションがあり、覚えたばかりの「オール・マイ・ラヴィング」を歌って合格。4人組のバンドが誕生します。
「小学生なのに、僕たちはプロを目指していたんです。中学に進むとオリジナル曲をつくっていました。高校では、8人組のロックバンド『MOZANBEEK(モザンビーク)』を結成して、ライブハウスで歌ったり、大学の学園祭にも呼ばれていましたね」
当時、プロへの登竜門と言われた「NHK ヤングミュージックフェスティバル」に出場し、銀賞受賞。ゲストの佐野元春さんから高い評価を得ますが、優勝を逃したことでバンドは解散してしまいます。
その後、「川村康一 with Sunrise Party」を結成して、精力的にライブ活動を実施。レコード会社に送ったデモテープがきっかけで、1989年にBMGビクターからメジャーデビューを果たします。
25歳のとき、川村康一さんは「キティアーティスト」に所属します。このプロダクションには、井上陽水、バービーボーイズ、安全地帯、久保田利伸、来生たかお、RCサクセションも一時所属していました。
デビューアルバム『HAVE A GOOD-TIME』は、爽やかな歌声と都会的なサウンドから、11曲中6曲がタイアップ曲となり、自動車や清涼飲料水、電話会社、プレジャーボートのCMに起用されました。
翌年、セカンドアルバムをハワイでレコーディング。ハワイを代表するサーフミュージックの「カラパナ」が参加。このアルバムからも5曲がCMのタイアップ曲に決まり、高い評価を得ます。
そしてサードアルバムは、ロサンゼルスでのレコーディングが決定。プロデューサーは、マドンナやデヴィッド・ボウイなどを手がけたナイル・ロジャースに決まり、まさに時流に乗ってブレイク寸前……。ところが、あのバブル崩壊が起きてしまいます。
経営不振に陥った所属プロダクションは、分裂状態に。実績のあるアーティストは他のプロダクションに移籍しますが、若手の川村さんには移籍先が見つからず、しばらく自力でライブ活動を続けます。バブルの象徴的音楽だった「シティポップ」も下火に……。そして、サードアルバムも幻に終わります。
このまま音楽業界では食べて行けない……。川村さんは、学生時代にデザインを学んでいたので、アートディレクターの道に進みます。
「会社員になって、気持ちは“引退”でしたね。でも、僕のバックバンドのミュージシャンたちが、矢沢永吉さんや西野カナさん、EXILEなどで活躍していて交流もあったんです。いつも話題になるのが、幻に終わったサードアルバムのこと。サードアルバムはアーティストにとって特別な1枚なんです。これをつくらない限り、ずっと後悔するだろうと思っていましたね」
そんなとき、新型コロナウイルスの影響で、ミュージシャン仲間の時間が空いてアルバム制作の話が持ち上がります。川村さんは伊豆にあるスタジオを借りて、3日間の合宿を行い、31年ぶりのサードアルバム『MY PRIMARY COLORS』を完成させました。
「いまはサンプリングマシーンで、自宅にいながらアルバムがつくれる時代です。けれどシティポップは音に厚みがあり、オーディオやカーステレオで聴いてこそ真価が問われるので、スタジオ収録にこだわりました。僕のサウンドが夏の風に乗って、みんなの心に届いてくれたら嬉しいですね!」
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