東海道のロングセラー駅弁「元祖鯛めし」が生まれた理由
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「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
東海道沿線の「鯛めし」駅弁を辿ってきた今回の旅。いよいよ今回は、124年もの歴史を誇る、静岡駅の「元祖鯛めし」に迫ります。ご当地名物駅弁のパイオニアとも云われる、静岡の鯛めしはいかにして生まれ、どのように育まれてきたのでしょうか。
東海道「鯛めし」紀行・東海軒編(第5回/全5回)
明治22(1889)年以来、東京・名古屋・大阪を結び、日本の大動脈として成長してきた東海道の鉄道。昭和39(1964)年以降は、主役の座を新幹線に譲りましたが、コロナ禍にあっても、多くの人が行き交うルートであることに変わりはありません。きょうも最新鋭のN700S新幹線電車が、静岡の茶畑のなかを最高時速285kmで駆け抜けて行きます。その移動中には、やっぱり「駅弁」が恋しくなりますよね。
明治30(1897)年から124年間にわたって東海道を行き交う旅人のお腹を満たしている駅弁と言えば、静岡駅弁・東海軒の「元祖鯛めし」(750円)です。駅弁の草創期、むすびや幕の内が主流だったなか、いまや当たり前となったご当地名物を使った駅弁の先駆けとなった存在です。東海軒によると、「元祖鯛めし」誕生のきっかけは、静岡市内を襲ったある災害だと言います。
静岡市清水区の興津付近は、かつて清見潟が広がる景勝地でした。この沖合で獲れるアマダイは「興津鯛」と云われ、家康ゆかりの名物として知られていました。しかし明治25(1892)年、静岡大火が発生。東海軒の前身・加藤辨當店も焼けてしまい、見舞いに漁師さんがアマダイをおくります。アマダイは煮くずれしやすく、商品にはなりにくいとされていました。そこで煮くずれしたアマダイを、家族の食事として、ご飯にかけていただいたと言います。
すると、このアマダイの甘い味付けと軽い舌触りが子どもたちに受け、鉄道高官の子どもも大いに喜んだのだそう。加藤辨當店ではちょうど、“子ども向け”の駅弁を作ろうと考えていたこともあって、商品化に取り組むことになり、明治30(1897)年、いまに続く「元祖鯛めし」が生まれたと言います。東海軒によると、「明治25年の静岡大火がなかったら、この駅弁は生まれていなかったかも知れない」ということです。
【おしながき】
・桜飯
・鯛そぼろ
・たくあん漬け
昔ながらの鯛の絵が描かれた紙蓋を外すと、いまも一面の鯛そぼろ! おかずはたくあんだけというのも、明治の空気をいまに伝えます。下には薄めに味付けられた桜飯(静岡における醤油の炊き込みご飯)がしっかり詰まっています。明治の子どもたちが喜んだ甘めの鯛そぼろと、おこげも見える桜飯のバランスが絶妙だと、改めて感じました。明治、大正、昭和、平成、令和と5つの時代に渡って愛される味、誰もが一度は体験したいものです。
じつは今回、東海道「鯛めし」紀行をお届けしたのは、東海道本線沿線で親しまれている鯛めしが、元は大きなピンチをきっかけに生まれた駅弁であるからです。いまも駅弁各社はもちろん、さまざまな飲食関係の方が苦境に立たされています。でも、苦しいなかにも、もしかしたら新たなヒットの“ひかり”があるかも知れません。いまこそ、東海道の伝統駅弁をじっくり味わいながら、次の時代への一歩を歩み出していきませんか?
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/