昭和のころ、山陽本線・糸崎駅と三原駅で「駅弁」がよく売れた理由
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「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
国鉄時代、機関区が置かれ、多くの列車が長時間停車していた広島県三原市の糸崎駅。当時は駅弁の立ち売りも大繁盛だったと言います。しかし、山陽新幹線の開業に伴って、立ち売りによる駅弁販売は、衰退を余儀なくされます。でも、お隣・三原駅に販売拠点を移した浜吉の駅弁は、昭和の終わりまで、引き続き売れ続けました。なぜ、糸崎と三原の駅弁は人気を集めていたのでしょうか?
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第35弾・浜吉編(第3回/全6回)
岡山からの観光快速列車「ラ・マルしまなみ」が、造船所のクレーンを横目に見ながら、尾道水道に差し掛かってきました。岡山を拠点に、平成28(2016)年から運行されている観光列車「ラ・マル・ド・ボァ」。今年度は山陽本線の「ラ・マルしまなみ」の他、宇野線方面の「ラ・マルせとうち」、赤穂線方面の「ラ・マル備前長船」が月替わりで運行され、祝日には、四国方面の「ラ・マルことひら」として運行されています。
「ラ・マルしまなみ」も通る山陽本線・糸崎駅を社長室の窓からのぞき込んでいるのは、駅弁を手掛けて130年以上、「株式会社浜吉」の赤枝俊郎(しゅんろう)代表取締役です。鉄道好きなら、まず知らない人はいない運行の拠点「糸崎」ですが、駅名は「いとざき」、地名は「いとさき」と濁らないのも特徴です。そんな糸崎駅とお隣・三原駅で、駅弁がよく売れた理由を伺いました。
●アイドル並みの人気!? 駅弁の売り子にも「センター争い」があった!
―近年、(営業上は)無人化された糸崎駅ですが、昔は賑わっていたんですよね?
赤枝:糸崎のほうが「街」でした。糸崎は岡山鉄道管理局(現・JR西日本岡山支社)の管内で、ここから三原までで広島鉄道管理局(現・JR西日本広島支社)に変わります。昔は、駅長にもランクがありました。岡鉄管内の1位は岡山駅ですが、続くのが糸崎駅。3位は(四国連絡を担う)宇野駅でした。糸崎駅ではどの列車も、長い時間停車しました。蒸気機関車の石炭と水を補給していたんです。
―とくに年配の方は、糸崎駅での立ち売りの思い出が多いでしょうね。
赤枝:その後も糸崎では機関士が交代するため、列車が停まりました。とくに夜行列車で駅弁がよく売れたと言います。お客様からいただいたお金は、そのまま「たらい」に投げ込んで、勘定もする時間がないほどでした。最盛期には30人ほど売り子が居たと聞いています。当時は駅弁の売り子の間でも「センター争い」があったそうです。長い編成の列車では、真ん中はよく売れますが、端はどうしても売れにくいんです。争いは熾烈だったそうです。
●お客様に愛された名物「売り子」
―どんな方が人気だったんですか?
赤枝:昭和の終わりごろ、最後まで立ち売りを務めて下さった丹羽良子さんという女性の方です。小柄でしたが、力はとても強くて、声がよく響く方でした。優等列車の停車がなくなった糸崎では、さすがに駅弁は売れないので、三原駅へ移って立ち売りを続けて下さいました。いつのまにかお客様と仲よくなっていて、弁当を売らずに、重い荷物を持つのを手伝ったりすることもあって、とても人情の厚い方でしたね。
―列車への駅弁の積み込みもあったでしょうね?
赤枝:私が糸崎に来てから驚いたのは、高校野球の応援列車の存在です。西鹿児島からの鹿児島実業とか、常連校になると、応援団がひと列車を貸し切って来るんです。すると1編成単位で駅弁の注文が入ります。「○号車と○号車の間に居るのでお願いします」と連絡があって、そこへ持っていきます。甲子園の試合開始時刻に合わせて運行されますので、糸崎に着くのは、だいたい早朝だったりするんです。
●山陽新幹線開業! 松山行の水中翼船との連絡で賑わう三原駅
―昭和50(1975)年の山陽新幹線開業では、やはり大きな影響を受けたんでしょうか?
赤枝:三原駅は三原港に近くて、若い方なら徒歩5分ほどです。東京からの「ひかり」と水中翼船が接続して、四国・松山への最短ルートを担うことになりました。毎時1本の(新大阪以西各停となる)「ひかり」が三原に着きますと、だいたい10分程度ですが、駅弁は大変よく売れました。1本の新幹線で30食~50食。列車が2本重なると100個くらいの駅弁をお買い求めいただいた記憶があります。
―確かに昭和50年代の時刻表で調べてみると、東京~松山間は宇高連絡船経由より、三原経由にしたほうが、2時間くらい速かったりしますね。
赤枝:いまは東京直通の新幹線は、ほとんど三原に停まりませんが、当時は東京発着が多かったんです。ですから、昭和63(1988)年の瀬戸大橋開業は、三原の駅弁にとっては、大打撃でした。バブル景気のいちばんいい時代でしたが、駅弁の売り上げが、約1億円落ちました。あの時代の1億は大きかったですね。部長に昇進していた立ち売りの丹羽さんが、「昔はこんなものじゃなかった」と話していたのを思い出します。
瀬戸大橋によって本州と四国が鉄道で結ばれてから、尾道・三原周辺が、改めて脚光を浴びたのは、平成11(1999)年のしまなみ海道開通です。この時期、山陽本線沿線でも、新作駅弁が作られ、浜吉でも大三島の道の駅で弁当を販売したこともあったと言います。そのころから、リニューアルを受け、継続的に販売されているのが「あなごめし」(1390円)。こちらは、ファベックスの「惣菜・べんとうグランプリ2021」で優秀賞にも選ばれています。
【おしながき】
・味付けご飯
・焼き穴子
・香の物
・たれ
ふんわり香ばしく焼き上げられた焼き穴子が、味ご飯の上、一面に敷き詰められています。そのままでいただいても十分に美味しいですが、お好みで浜吉オリジナル・秘伝の甘めのたれを“追いだれ”すると、アクセントが付いて、より深い味わいを楽しむことができるのが嬉しいもの。近年では、浜吉の駅弁を取り扱っている駅売店でも人気の上位にくることも多いということです。
尾道駅を発車した、上りの観光快速列車「ラ・マルしまなみ」が岡山へと戻っていきます。「ラ・マルしまなみ」は、5月に続いて7月も、三原まで延長運転が行われます。三原では週末中心に三原港~広島港を結ぶ観光型高速クルーザー「SEA SPICA(シー・スピカ)」との乗り継ぎが可能です。1970~80年代、水陸の結節点としてにぎわった三原のまちを思い浮かべて、瀬戸内の船旅を組み合わせた行程を楽しむのもいいですね。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/