昭和モダンな大船軒の社屋に隠れている「家紋」とは?

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【ライター望月の駅弁膝栗毛】
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。

大船軒本社の丸窓に入っている島津家の家紋

画像を見る(全10枚) 大船軒本社の丸窓に入っている島津家の家紋

神奈川・大船を拠点に駅弁を製造する「株式会社大船軒」。その本社社屋は、昭和6(1931)年に建てられたもので、いまも昭和初期のモダンな雰囲気を残している建物です。しかし、時代は戦争へと突入。大船軒は駅弁と共に時代の影響を大きく受けていきました。戦後は一転、駅弁の黄金時代を迎え、テレビドラマの舞台にもなった大船駅。いまも続く、昭和生まれの駅弁と共に、昭和の大船駅にタイムスリップいたしましょう。

E217系電車・普通列車、横須賀線・横須賀~田浦間

E217系電車・普通列車、横須賀線・横須賀~田浦間

「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第39弾・大船軒編(第4回/全6回)

幕末から日本海軍の軍港として発展してきた横須賀。いまも海上自衛隊とアメリカ海軍が使用しており、多くの艦船が見られます。訪れた日は、南極観測船「しらせ」も見えました。港に沿って走り抜けていくのはJR横須賀線の電車。日中は逗子~久里浜間を往復する4両編成の区間列車が中心ですが、グリーン車を連結した東京・千葉方面の直通列車も毎時1往復程度運行されています。

株式会社大船軒・今野社長

株式会社大船軒・今野社長

横須賀の海軍と密接な関係があった横須賀線の敷設と大船駅の開業。大船を拠点に、駅弁を作り続けている「株式会社大船軒」もまた軍の影響を受け、昭和モダンな社屋は戦時中、海軍に接収されたと言います。明治に「サンドウイッチ」、大正は「鯵の押寿し」を開発してきた大船軒ですが、昭和の大船軒は、いったいどのように歩みを進めたのか? 今野高之代表取締役のインタビューが続きます。

大船軒本社の丸窓に入っている島津家の家紋

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●島津家の家紋が入った、昭和モダンな大船軒の社屋!

―いまの社屋は、昭和6(1931)年に建てられたそうですね?

今野:この年、大船軒は株式会社化して富岡周蔵が代表取締役社長となりました。これに合わせ、時代に合った(昭和モダンの)鉄筋コンクリート造りの本社兼工場を新築したものと思われます。当時としては画期的な電気冷蔵庫を入れて、アジの保存などにも役立てられたと言います。社屋には周蔵の奥様のルーツである島津家の家紋が入れられました。周蔵の奥様への感謝の気持ちが、この家紋には入っているような気もいたします。

―この社屋、海軍の接収を受けたと言いますが、軍とはどんな関係がありましたか?

今野:昔から軍へハムを納めていたのですが、いざ出兵になると兵士への弁当、いわゆる「軍弁」を作ったこともあったようです。戦時中はこの建物も海軍に接収され、軍に完全に奉仕する形となりました。海軍将校向けの弁当を作っていたとも聞いていますが、このとき、昔の駅弁の資料は失われてしまいました。「鯵の押寿し」も、昭和15(1940)年に物資不足のため製造中止となり、復活できたのは昭和27(1952)年のことでした。

「駅弁の売り子」像(茶のみ処大船軒)

「駅弁の売り子」像(茶のみ処大船軒)

●昭和の駅弁黄金時代! あの田村正和さんが売り子に!?

―駅弁黄金時代と呼ばれた昭和30年代は、大船軒でもよく駅弁が売れたそうですね?

今野:大船軒の「駅弁」の最盛期は、昭和38(1963)年~40(1965)年までの3年間と云われています。当時は「鯵の押寿し」が1日6000個ほど売れたそうです。この時期は、新幹線開業の直前で、東海道本線を特急「こだま」をはじめ、さまざまな特急・急行列車が走っていました。高度経済成長の影響で、旅行ブームもあったと言います。大船に停まる急行なども窓が開いて、立ち売りの売り子から駅弁を買い求めていたんでしょうね。

―大船軒では、いつごろまで駅弁の立ち売りをやっていたのでしょうか?

今野:昭和40年代にはまだあったと思われます。昭和41(1966)年から翌42(1967)年にかけてTBS系で放送されたテレビドラマ・木下恵介劇場「記念樹」という作品で、故・田村正和さんが大船軒の駅弁の売り子を演じて下さいました。同じ大船軒の立ち食いそば店の女性に恋をするストーリーだったそうです。ロケ風景の写真は、弊社に残っていて、「茶のみ処大船軒」の店内でご覧いただくことができます。

藤沢駅の立ち食いそば店

藤沢駅の立ち食いそば店

●昭和30年代から立ち食いそば参入、いまもできる限り“大船軒風”で!

―大船軒の駅そばも根強い人気ですが、いつごろからあったんですか?

今野:昭和32(1957)年からです。大船駅をはじめ、藤沢、茅ケ崎、鎌倉の各駅などで、立ち食いそばを提供してきました。NREグループとなった時点で大船軒は弁当を重点的に製造し、駅そばはNREが担当するようになりました。このときJR横浜支社さんからも、大船軒のつゆの味をしっかり守るようにお話をいただきました。いまも、大船軒の屋号を残している藤沢と本郷台のお店は、できるだけ“大船軒風”の味を残す努力をしています。

―長距離輸送が新幹線に移って通勤で利用される方が中心となるなか、多角化も図っていったそうですね?

今野:昭和30年代には大船駅の駅員食堂や大船駅前にレストランをオープンさせました。レストランでは洋食なども扱っていたようです。昭和40年代は湘南貨物駅の駅員食堂も手掛けていたと言います。昭和51(1976)年には「あじさいちらしずし」も発売しました。「鯵の押寿し」に対し、鎌倉のあじさいにちなんで女性的な雰囲気のちらしずしを開発したものと思われます。いまもリニューアルされながら、通年販売の駅弁となっています。

あじさいちらしずし

あじさいちらしずし

昭和51(1976)年の発売以来、45年以上の歴史を誇る「あじさいちらしずし」(1080円)。製造を中断したり、季節販売になった時期もありましたが、令和2(2020)年6月からは、地元の皆さんの声に応える形で通年販売の駅弁として復活しました。大船駅はもちろん、東京駅「駅弁屋祭 グランスタ東京」などでも、おなじみの駅弁となっています。ちらし寿しだけでなく、鯵の押寿しが2カン入ったことで、より食べ応えのある弁当になりました。

あじさいちらしずし

あじさいちらしずし

【おしながき】
・ちらし寿し
酢飯、海老酢漬け、小鯛酢漬け、びんちょうまぐろ薫製、サーモン薫製、
いくら醤油漬け、帆立煮、穴子煮、椎茸煮、おぼろ、錦糸玉子
・鯵の押寿し(2カン)
・ガリ

あじさいちらしずし

あじさいちらしずし

ふたを開けると、魚介と錦糸玉子・おぼろで彩られた、華やかなちらし寿しが現れました。サーモンといくら、まぐろに小鯛、海老に帆立に穴子と、バラエティ豊かな魚介類がとても目を引きます。まぐろやサーモンは手間をかけて薫製にされており、ひと味違った味わい。鯵の押寿しが2カン入ったことで、味にアクセントがついて、食べやすくなりました。鎌倉の散策を楽しんだあとも、しっかりお腹を満たしてくれそうです。

E233系電車・普通列車、根岸線・本郷台~大船間

E233系電車・普通列車、根岸線・本郷台~大船間

長年、大船駅には東海道本線と横須賀線の列車が発着してきましたが、昭和48(1973)年には、根岸線が洋光台駅から延伸され、京浜東北・根岸線のスカイブルーの列車が、大船駅に乗り入れるようになりました。来年(2023年)で全線開通50周年となる根岸線。普段は、通勤路線の色あいが濃い路線ですが、改めて注目を浴びるきっかけとなるか? 次回は、平成から令和にかけての大船軒に注目してまいります。

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

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