幸福の寿し本舗は、なぜ「駅弁」に参入したのか?
公開: 更新:
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
今年(2023年)で青函トンネル・瀬戸大橋の開業により、日本列島がレールで結ばれた“一本列島”のダイヤ改正から35年となりました。その間に東北新幹線は盛岡から延伸、着工から38年の歳月をかけて新青森までの全線が開業しました。この東北新幹線全線開業に合わせて、青森では県を挙げて「駅弁」の開発が行われました。今回は、初めて「駅弁」を開発した会社の試行錯誤と、青森ならではの鉄道事情に注目しました。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第42弾・幸福の寿し本舗編(第3回/全6回)
青函トンネルを飛び出してきたのは、新函館北斗からの北海道新幹線「はやぶさ」号です。昭和63(1988)年3月13日、青函トンネルが開業して、本州と北海道がレールによって結ばれました。これに伴って青函連絡船は廃止され、海峡線(津軽海峡線)には、快速「海峡」、急行「はまなす」、特急「はつかり」、寝台特急「北斗星」などが走り始めました。青函トンネル開業から35年。新幹線札幌開業まで、もうしばらく辛抱の時が続きます。
東北新幹線と北海道新幹線の境界駅・新青森の駅弁を手掛けているのが、青森を代表する製パン業者・工藤パンの子会社「幸福の寿し本舗」です。幸福の寿し本舗生産部長の工藤高嗣取締役は、鉄道での旅は夜遅く青森を出る在来線の夜行列車で東京方面へ向かったことが思い出されるそう。“上野発の夜行列車”ではなく、“上野行の夜行列車”がもたらした青森の駅弁への影響も、那須尚幸営業部長と一緒にお話しいただきました。
●青函トンネルブームのあと、いち早くコンビニへ!
―今年で青函連絡船廃止、青函トンネルの開通から35年となりますが、当時の青森は大いに賑いましたか?
工藤:開通時よりも青函トンネルの工事をしているときが、最もにぎわっていたと記憶しています。いまは過疎が問題になっている竜飛崎周辺も、工事関係者が多く滞在したことで、新たな“まち”ができたかのようで、パンや弁当も作れば売れた時代でした。開業した年は、物珍しさや博覧会が開催されたこともあって、観光で訪れる人も多かったかと思いますが、工事関係者がいなくなり、青森はだんだんと静かになっていってしまいました。
―創業したばかりの「幸福の寿し本舗」ですが、当時はどんな事業をしていましたか?
那須:当時の青森はコンビニエンスストアがなく、おにぎりや寿司などを製造する一方で、イベントの弁当などを製造していたかと思います。当時は、工藤パンの自社店舗も多く、(パンを卸すことができる)個人商店も多くありました。しかし、平成に入って、コンビニが台頭したことで、工藤パンもデイリーヤマザキのフランチャイズ店舗を担うようになりました。その流れで、いわゆるコンビニ弁当やサンドイッチを製造するようになっていきました。
●コンビニ弁当から「駅弁」へ、その違いに驚愕!
―幸福の寿し本舗が、「駅弁」に参入されたきっかけは?
那須:平成22(2010)年の東北新幹線全線開業を前に、JR東日本盛岡支社さんと青森県から「駅弁を販売しませんか」と新青森駅の新たな構内営業者の募集がかかりました。これに各社が応募し、そのなかから弊社や八戸駅弁の吉田屋さん、三沢の三咲羽やさん、五所川原のつがる惣菜さんが、新青森の「駅弁」の製造を行うことになりました。加えて、もともと、青森駅の構内営業者だったウェルネス伯養軒の青森支店(当時)も販売しました。
―総菜弁当、コンビニ弁当と「駅弁」、作り方にはどんな違いがありましたか?
那須:弊社は笹寿司などを青森駅のNEWDAYSなどで販売させてもらっていました。ただ、コンビニ弁当がメインでしたので、駅弁では仕出し店の御膳を意識したのですが、試作品をプラスチックのトレーで、JRさんや県の方に持っていったんです。すると「これは駅弁ではない」と一蹴されました。駅弁にふさわしい「折箱」というものがあるんだというところからのスタートでした。JRさんの「駅弁」へのこだわりにも圧倒されました。
●青森は夜行列車文化、ゼロから学ぶ「駅弁」のイロハ
―駅弁に参入するまで、「駅弁」を召し上がって旅に出たことはありましたか?
那須:残念ながら、「駅弁」を食べた記憶がありません。私自身の個人的な経験ですが、東京へ列車で出かけたことはありましたが、昔は、ほとんど「ゆうづる」「はくつる」(注)といった夜行列車で移動をしていました。家などで食事を済ませてから、夜遅くに青森駅を出発しますので、寝ている時間のほうが長かったんです。それゆえ、地元の駅弁を買って列車で食べる習慣が無かったと感じています。
-----
■「ゆうづる」:昭和40(1965)年から平成6(1994)年まで、上野~青森間を常磐線経由で結んだ寝台特急。最盛期には7往復が運行された。
■「はくつる」:昭和39(1964)年から、上野~青森間を東北本線経由で結んだ寝台特急。平成14(2002)年の東北新幹線八戸開業に伴って、残念ながら廃止された。
-----
―そんなご苦労を乗り越えて、新幹線開業当初、どんな駅弁を販売されていましたか?
那須:「津軽の幕の内弁当」と「青森海鮮ちらし寿司」です。求められているのは、地域性の強い弁当だというのはわかるんですが、お客様が、新幹線で召し上がる様子をイメージしながら作っていくのは、(私たちにその経験が無いゆえ)難しいことでした。それでも、食材の由来や弁当のコンセプトなどを、必死で考えながら作っていきました。
JR盛岡支社や青森県がリードする形で行われた東北新幹線全線開業の新作駅弁開発。青森県では、新幹線を利用した観光客が増え、駅弁の需要が見込まれることから、日本レストランエンタプライズ(NRE、当時)の協力を得ながら、駅弁の品質管理基準・商品開発アドバイス等を目指した「あおもり駅弁塾」という研修会を開きました。これを通じて生まれた駅弁の1つが、幸福の寿し本舗の「青森海鮮ちらし寿司」(1180円)です。
(参考)青森県ホームページ
【おしながき】
・酢飯(青森県産「青天の霹靂」使用) おぼろ 錦糸玉子
・ホッキ貝の酢漬け
・トラウトサーモンの酢漬け
・鯛の酢漬け
・〆さば
・ほたての照り焼き
・ガリ
「青森海鮮ちらし寿司」のふたを開けると、しっかりとした酢の香りと共に、ホッキ貝にサーモンといった北の魚介の鮮やかな色合いが視界に飛び込んできます。加えて、〆さばやほたてをはじめとした青森の海鮮食材がいっぱい載ったちらし寿司となっています。平成22(2010)年12月4日の東北新幹線全線開業から10年あまり経ったいまも、新青森駅の駅弁売場に並び続ける、希少な駅弁の1つです。
青函トンネルの開業以来、本州と北海道を結ぶ列車が走る津軽線の青森~中小国間。前半の14年間は、快速「海峡」と特急「はつかり」、後半14年は特急「スーパー白鳥」「白鳥」などが行き交いました。いまは本州・北海道間の貨物列車が走る間に1~2時間に1本程度の普通列車が走ります。さらに、災害の被害を受けた蟹田~三厩間は運休が続いており、路線の今後が気になります。次回は2010年代のお話を伺っていきます。
この記事の画像(全10枚)
連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/