北海道出身の「吉田屋」は、なぜ青森・八戸の駅弁業者になったのか?
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「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
駅弁屋さんのルーツをたどっていくと、その地域の名士のお宅だったり、鉄道開業に際し、大きな貢献があったことから鉄道構内営業者になったケースが多いものです。そのなかで、八戸駅の駅弁屋さんは、地元出身ではない「旅人」が、駅弁を手掛けるようになりました。なぜ、たまたま駅に立ち寄った旅人は、駅弁を作り始めたのでしょうか?
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第44弾・吉田屋編(第2回/全6回)
青い森鉄道の普通列車が八戸駅を発車して青森駅を目指します。青い森鉄道は東北新幹線の開業で経営分離されたかつての東北本線のうち、目時~青森間を受け持つ会社。東北本線は、明治24(1891)年、日本鉄道の路線として上野~青森間が全通しました。いまの八戸駅は、街の中心部から約4km離れたこの場所に尻内(しりうち)駅として開業。国鉄時代の昭和46(1971)年、「八戸駅」に改称された歴史を持ちます。
尻内駅として開業した翌年、明治25(1892)年に鉄道構内営業者となり、去年(2022年)、創業130周年を迎えたのが、駅東口を拠点に駅弁を製造する「株式会社吉田屋」です。現在のトップは、吉田広城代表取締役社長です。
<プロフィール>
吉田広城(よしだ・ひろき) 株式会社吉田屋 代表取締役社長
昭和43(1968)年3月4日生まれ(55歳)、青森県八戸市出身。建築関係の仕事を経て、平成11(1999)年7月に、親族の吉田ミヨさんから「吉田屋」の経営を引き継いで6代目の社長に就任。販路拡大を積極的に行う一方で、「駅弁プロデューサー」の肩書も持ち、新作駅弁も積極的に発売している。
●北海道がルーツの吉田家!
―吉田社長が、6代目に就任されて間もなく25年になるそうですが、お父様から受け継いだわけではないのですね?
吉田:じつは受け継いだとき、弊社はとても厳しい状況でした。私は初代社長直系の長男でしたので、もしも、このまま駅弁を廃業するにしても、直系の家に経営を戻しておけば、親戚からあれこれ言われることはないだろうといった判断もあって呼ばれたようです。私はそれまで建築のデベロッパーのような仕事をしていましたので、吉田屋を継ぐとは思ってもいませんでした。全く飲食経験もなく、1代目のようなつもりで、この仕事に就きました。
―吉田家のルーツは、北海道だそうですね?
吉田:北海道の大野村(現・北斗市)です。ちょうど北海道新幹線・新函館北斗駅の辺りですね。初代は吉田亀五郎と言いました。亀五郎は農家の五男坊で料理が得意でした。ただ、明治時代の五男ですので、実家にはいられなくて、包丁を何本か持って家を出て、料理で身を立てようと、津軽海峡を渡り、青森からは、開業したばかりの鉄道に乗って、上野を目指して上京していたんです。
●駅員さんに呼び止められたことをきっかけに「鉄道構内営業者」へ
―初代・亀五郎さんが、「尻内駅(現・八戸駅)」を拠点とされたのは、なぜですか?
吉田:上京する途中、尻内駅で宿を取るために途中下車しました。すると、駅員さんが、包丁をいっぱい持っている亀五郎を見て「東京へ行ったところで当てはあるのか? よかったら、ここで賄い(料理)を作っていかないか?」と声をかけて下さったことが、構内営業のきっかけです。このとき駅員さんが亀五郎を呼び止めてくれなかったら、そのまま東京へ行って店を開いていたかも知れないわけですから、こればかりはご縁ですね。
―鉄道開業の翌年・明治25(1892)年から構内営業に参入されたわけですが、最初の駅弁はどんなものでしたか?
吉田:最初の駅弁はおにぎりとか塩引き鮭、たくあんが入ったものと聞いています。当時、日本鉄道(現・東北本線、青い森鉄道)は開通したばかりで、尻内駅には駅員はもちろん、線路工事や保線関係者の宿舎などがたくさんあり、大変繁盛したと聞いています。日露戦争のときは、鉄道で移動する軍隊に無料で食事を奉仕するなどして表彰を受けました。昭和元(1926)年ごろには、尻内駅前に旅館を兼ねた社屋を建てました(現在は貸出中)。
●尻内駅で「駅弁」が成立した背景は?
―駅弁以外にも商売をされていましたか?
吉田:駅前旅館、駅の食堂、土産物店を合わせてやっていました。昔の駅弁の掛け紙を見せていただいたことがありますが、当時も吉田屋はデザイン性に優れた掛け紙を作っていました。幕の内弁当だけでなく、さまざまな弁当も作っていたと言います。そのころから「駅弁は地域とともにあるべき」という考えで、観光名所の種差海岸や櫛引八幡宮などの紹介を入れていました。吉田家には“工夫”する伝統があるようです。
―決して鉄道利用者は多くなかった時代かと思いますが、尻内駅で、駅弁が“成立”した背景は、どんなところにあったと考えますか?
吉田:当時は列車本数が少なかった分、駅での待ち時間が長かったものと思われます。昔は(荷物輸送もありましたから)荷物を積んだり、下ろしたりする作業もあって、列車の停車時間も10~20分と長かったんです。尻内駅は盛岡と青森の中間にあって、八戸は全国有数の港があり、青森の産業の玄関口の役割も果たしていました。このため鉄道で東京とつながっていることによって、人や物の流れが大きかったのだと思います。
“駅弁は地域とともにあるべき”という吉田屋の伝統を活かした新作駅弁が、7月中旬から登場しました。その名も、「八戸銘酒『八仙』粕漬けハラスのはらこめし」(1480円)と言います。「八仙」とは、地元の酒蔵・八戸酒造が造る「陸奥八仙」のこと。吉田屋が厳選した脂がのった鮭ハラスを、「陸奥八仙」の酒粕に漬けて焼き上げ、いくらと一緒に「はらこめし」に仕上げました。酒と相性のいい鉄道旅だけに、地酒とのコラボは、とてもいいですね。
【おしながき】
・味付けご飯(白飯、赤酢、ポン酢ほか)
・「八仙」酒粕漬け鮭ハラス焼き
・鮭そぼろ
・いくら
・錦糸玉子
・わさび菜醤油漬け
吉田社長によると、吉田屋が駅弁に使う米と、八戸酒造が「陸奥八仙」に使う米が同じ、青森県産「まっしぐら」であることから、「相性は抜群!」と胸を張ります。ふたを開けると、ふんわり酒粕のいい香りが広がります。脂がのって“こってり”したハラスを赤酢とポン酢で“さっぱり”仕上げられたご飯と一緒にいただくと、口のなかでちょうどいい味わいに。ときどき、いくらがプチっとはじけて塩気が広がり、いいアクセントになってくれます。
尻内駅の開業から3年後、尻内と八戸の中心部と港を結ぶ支線が、日本鉄道によって開業、この支線に「八ノ戸駅」が設けられました。その後「八戸駅」と改められ、昭和46(1971)年、尻内駅を「八戸駅」と改称するに当たって、これまでの八戸駅は「本八戸駅」となりました。現在は八戸線・八戸~鮫間には、「うみねこレール八戸市内線」の愛称も付けられています。次回は、八戸を代表する伝統駅弁の誕生秘話をお届けします。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/