静岡・沼津の駅弁には、なぜ「桃色」の紐がかけられているのか?

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【ライター望月の駅弁膝栗毛】
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。

駅弁の包装は近年、作り手の皆さんの省力化もあって、折箱を筒状のパッケージにスッとはめ込む「スリーブ式」のものが、かなり多くなっています。そのなかで、手間を惜しまず、昔ながらの紐をかける駅弁を残している駅弁屋さんは、応援したくなってしまうものです。紐も比較的多いのが歌舞伎の幕の色。オレンジと緑は鉄道の“湘南色”にも近いですね。しかし、かつての湘南電車の終着駅・沼津の駅弁屋さんは、「桃色」の紐を使っています。

313系電車・普通列車、御殿場線・富士岡~岩波間

313系電車・普通列車、御殿場線・富士岡~岩波間

「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第49弾・桃中軒編(第2回/全6回)

富士山に抱かれるように御殿場線の普通列車が、終着・沼津へ向けて坂を駆け下ります。明治22(1889)年2月1日、東海道本線(国府津~静岡間)の開通と共に、沼津駅が開業しました。このときの東海道本線はいまの御殿場線のルート。25パーミル(1000mで25m登る)の急勾配が続くことから、沼津駅では補助機関車の連結、解結作業が行われることになり、多くの列車が長時間にわたって停車することになりました。

その沼津駅開業から2年あまりの後、明治24(1891)年4月1日に、鉄道構内営業者として営業を始めたのが、「株式会社桃中軒(とうちゅうけん)」です。いまも沼津を拠点に沼津駅、新幹線が停まる三島駅での駅弁販売・駅そばなどを手掛けているのをはじめ、静岡東部の冠婚葬祭の仕出しなど、地域の生活に密着した営業を続けています。「駅弁屋さんの厨房ですよ」、今回は桃中軒の宇野秀彦代表取締役社長にお話を伺いました。

株式会社桃中軒・宇野秀彦 代表取締役社長

株式会社桃中軒・宇野秀彦 代表取締役社長

<プロフィール>
宇野秀彦(うの・ひでひこ) 株式会社桃中軒 代表取締役社長
昭和49(1974)年8月21日生まれ、静岡県沼津市出身、49歳。静岡県外の駅弁業者で修業を積んで、平成13(2001)年、株式会社桃中軒入社。看板駅弁「港あじ鮨」などの開発に携わり、平成30(2018)年、5代目の代表取締役社長に就任。

沼津市島郷付近(国道414号)

沼津市島郷付近(国道414号)

●徳川家の旗本として、江戸から沼津へ!

―宇野家のルーツを教えて下さい。

宇野:宇野家は徳川家の旗本でした。大政奉還のあと、15代将軍の徳川慶喜と一緒に静岡へやって来ました。もともと、沼津は(老中も出した)水野家が治めていたところで、明治時代のはじめごろには、駿府藩(静岡藩)を担っていた徳川家が沼津兵学校を設けて最前線と位置付けていたようです。桃中軒初代の宇野三千三(みちぞう)は、江戸にいたころ、小山家から入った人物で、家臣団と一緒に沼津にやって来たと聞いています。

―「桃中軒」という屋号の由来は?

宇野:初代の宇野三千三が、いまの沼津市島郷(とうごう)に居を構えていたことに由来します。当時、宇野家はお茶やお菓子を出す茶屋をやっていたと言います。「島郷」は昔、桃の郷と書いていまして、昭和の終わりごろまで桃畑があったのを憶えています。いまも国道414号の近くに少し残っているそうで、一部に桃の字を使った地名が残っている場所がありますね。ここからいまでも駅弁「御弁当(幕の内)」には「桃色」のしで紐を使っています。

桃中軒初代・宇野三千三氏

桃中軒初代・宇野三千三氏

●「おにぎりとたくあん」から始まった沼津駅弁!

―明治24(1891)年4月の沼津駅構内営業参入、その経緯を教えて下さい。

宇野:一部、推測もありますが、旗本は部下となる一族郎党を従えていました。そんな士族の事情があり、いろいろな形で地域のリーダーとして動いていたようです。当時行われた市内の公園建設の募金活動でも、文献に三千三の名前があります。そこで、構内営業の話があったときも、宇野さんにお任せしようとなりまして、個数はわかりませんが、「おにぎりとたくあん」を5銭で販売したといいます。

―ただ、初代の三千三さんは、不慮の事故で亡くなってしまったそうですね。

宇野:明治29(1896)年12月1日、沼津駅構内で列車にはねられ52歳で亡くなりました。当時は、いまのようにマナーを守る習慣があまりなく、車内でお茶を飲んだあと、陶器製の汽車土瓶をそのまま窓から投げ捨ててしまう乗客が多かったんです。このため三千三は、自ら線路に捨てられた土瓶を拾う清掃活動をしていました。しかし、この日は汽車が動き出したのに気付くのが遅れ、触車事故に遭ってしまったんです。

いまの沼津駅

いまの沼津駅

●元・鉄砲隊の番頭役、塩谷氏に救われた桃中軒

―構内営業参入から5年ほどでトップを失うことになって、大変だったでしょうね。

宇野:急きょ三千三の妻が2代目となり、江戸時代から鉄砲隊として三千三に仕えていた塩谷家の者が番頭役として店を切り盛りしていくことになりました。塩谷は全国の血縁関係を辿って奔走し、後継者にふさわしい人物を呼び寄せることとなり、大阪出身の秀吉(ひできち)が養子として宇野家に入りました。秀吉は大学在学中に塩谷が見込んだ桃中軒勤務の女性と結婚して、明治44(1911)年、桃中軒3代目の当主になりました。

―3代目当主の宇野秀吉・初代社長(注)は、のちに昭和の戦後になって、日本鉄道構内営業中央会(中央会)初代会長も務められた方ですよね?

宇野:大阪出身ということもあって、商才のある人物だったのだと思います。実際、秀吉の時代に「お好み弁当(現・御弁当、幕の内弁当)」や「鯛めし」など、いまも続いている駅弁を開発しています。また、沼津駅の近くにある弊社の敷地内には、大阪の玉造稲荷神社から分祀したお稲荷様を祀っています(一般の方の参拝は不可)。その意味では、弊社はとても恵まれていたところもあると思いますね。

(注)桃中軒は、昭和5(1930)年に個人商店から法人化され、3代目の宇野秀吉当主が初代社長に就任した。

桃中軒の幕の内弁当は、いまも昔ながらの「御弁当」(930円)と書かれた掛け紙と共に販売されています。描かれているのは、大きな富士山と逆さ富士、そして沼津を代表する景勝地・千本松原の松。そして紐の色は、もちろん桃中軒の屋号にちなんだ「桃色」です。「ゆづりあい 旅を楽しく 明るい車内」と車内マナーを呼びかける標語がいまも記されている背景には、志半ばで亡くなった初代・宇野三千三氏への思いもあるのでしょう。

御弁当

御弁当

【おしながき】
・白飯 梅干し ごま
・鯖の塩焼き
・蒲鉾
・玉子焼き
・鶏の唐揚げ
・白身魚のフライ
・箱根山麓豚の旨煮
・筍の旨煮
・桜漬け
・割干し漬け
・わさび漬け

御弁当

御弁当

昔ながらの俵ご飯に、鯖の塩焼き、蒲鉾、玉子焼きという“幕の内三種の神器”が入った正統派の幕の内です。調理場の方に伺いましたら、調理で最も気を遣うのは煮物だそう。静岡らしい甘めの味付けの煮物をいただくと、箱根の山を越えてきたなぁと感じられます。ちなみに、平成28(2016)年のTVドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で主役のお2人が召し上がっていたのはこの駅弁。個人的には“縁結び駅弁”として推したい弁当です。

小田急60000形電車・特急「ふじさん」、御殿場線・御殿場~足柄間

小田急60000形電車・特急「ふじさん」、御殿場線・御殿場~足柄間

戦前の昭和9(1934)年まで「東海道本線」として、特急「富士」「櫻」「燕」などの名列車が行き交っていた現在の御殿場線。いまは、小田急線の新宿から乗り入れてくる特急ロマンスカー「ふじさん」が松田~御殿場間を1日3往復走ります。次回は時代が下って、大正~昭和の戦前にスポットを当てながら、沼津駅でなぜ駅弁が売れたのかという点に、注目していきます。

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

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