あけの語りびと

81年前の夏、満員列車が銃撃された――湯の花トンネルの悲劇を語り継ぐ男性の

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お盆をふるさとで過ごす人たちの帰省ラッシュが始まります。81年前の夏も、東京から地方へ向かう列車は、軍人や疎開する人たちで大混雑でした。そんなふるさとへ向かう列車が、アメリカ軍機に銃撃され、多くの方が亡くなりました。今回はその銃撃の犠牲者の霊を慰め、後世に伝える取り組みをしている男性のお話です。

齊藤勉さん

齊藤勉さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

東京・新宿から甲州・信州を目指す、中央線特急の「あずさ」号、「かいじ」号。列車が、大きな天狗の像がある高尾駅のホームを横目に通過すると、車窓は一気に山深くなり、小仏峠に向けて登り坂をぐいぐいと登っていきます。その最初にくぐるトンネルの名前を「湯の花トンネル」といいます。

いまから81年前、1945年8月5日は晴天に恵まれた日曜日でした。中央本線は、3日前の八王子空襲で大きな被害を受け、運転を見合わせていましたが、急ピッチで復旧工事が行われ、この日から全線で運転を再開します。

湯の花トンネル近くを走る、現在の中央本線の下り普通列車(当時は画像左・上り線の単線運転)

湯の花トンネル近くを走る、現在の中央本線の下り普通列車(当時は画像左・上り線の単線運転)

新宿駅10時10分発「419列車」、普通列車・長野行には、軍人をはじめ、買い出しや疎開先を目指す人たちが、大挙して乗り込みました。デッキにも人があふれ、なかには窓から出入りする子供もいたといいます。列車は、浅川駅、今の高尾駅を正午過ぎ、およそ1時間遅れで発車。すし詰めの車内ではありましたが、ちょうどお昼どき、おにぎりを頬張る人もいれば、乗り合わせた人同士、互いの空襲の苦労話をしたり、少し和んだ雰囲気もありました。

そんな「419列車」が小仏峠の登り坂に差し掛かった時、ガクンとスピードが落ちます。突然、バリバリバリッ!と大きな音が響き渡り、列車は牽引する電気機関車と客車の2両目の半分まで湯の花トンネルに入ったところで、急停車しました。

「機銃掃射だ!」

そんな叫びと悲鳴が同時に響き渡り、ギューンブルブルブルとすさまじい音が迫ります。アメリカ軍のP51・ムスタング数機が低空で接近、満員の「419列車」に向かって、何度も何度も容赦なく銃弾を撃ち込んできたのです。数分前まで、日曜昼下がりの穏やかだった車内は、あちこちからうめき声が聞こえ、人が折り重なるように倒れて、一面、血の海と化しました。

中央本線を走る特急「あずさ」

中央本線を走る特急「あずさ」

この銃撃で亡くなった方は、警視庁の公式発表で52名。大半の方が即死とみられ、地元の方によって、現場近くで荼毘に付されたといいます。

「実は列車銃撃の調査を始めた頃、犠牲となった方で、お名前が分かっていたのは、わずかお一人だったんです」

そう話すのは、八王子市在住の齊藤勉さん、68歳。現在、「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」の会長を務めていらっしゃいます。

齊藤さんは23歳の時、市が行った「八王子の空襲と戦災の記録」の編集に関わったことで、戦没者のご遺族の方とお逢いして、戦争体験の聞き取り調査を行うようになりました。ただ、普通の空襲は、家の場所を調べれば、お住まいになっていた人が分かりますが、列車の乗客は、たまたま乗り合わせた人ばかりで、調査は困難を極めたんですね。

そこで、齊藤さんをはじめ本の編集委員の皆さんは、新聞やテレビなどの協力を得て、ときには、新聞に「尋ね人」の広告も出しながら、列車に乗っていた人を探しました。まだ新聞やテレビの影響力が強かった時代、終戦40年を前に、健在のご遺族も多く、次から次へと名乗り出ていらして、およそ8割の亡くなった方のお名前が判明しました。

いのはな慰霊碑

いのはな慰霊碑

合わせて、地元の皆さんからもこの悲惨な銃撃を語り継いでいこうと慰霊の会が発足。毎年8月5日に追悼行事が行われるようになりました。1992年には、地元のロータリークラブのご協力で犠牲となった方のお名前が刻まれた石碑が作られ、調査も40年以上にわたって、地道に続けてきました。

その甲斐あって、一昨年・去年と、新たに犠牲となったお二人の方のお名前が分かり、石碑にもお名前が刻まれました。ご遺族の方も80年の時を経て、「ようやくホッとした」とおっしゃったといいます。「調査は諦めてはいけない」と話す齊藤さんですが、まだまだご苦労もあります。

「当時は自分の持ち物に名前を書いていましたので、遺品にお名前はあるんですが、ご家族からの借物を持っていたりして、亡くなったと特定できないケースもあるんです。だから、あの日、列車に乗っていて亡くなった方のご遺族の方にお目にかかりたいんです」

8月5日、いのはなトンネルの近くでは、慰霊の集いが開かれます。年々、乗客で銃撃を体験された方の出席は少なくなり、去年はわずかにお二人でした。でも、出席される方の数は、不思議と減ることがありません。

毎年、新たに銃撃を知った人たちが一度は手を合わせたいと訪ねて下さるのだそうです。

去年の慰霊の集いに参列された、列車の車掌として乗務していた女性の方のお孫さんがおっしゃった言葉を胸に刻みたいと思います。

「祖母は亡くなるまでずっと、『あの時、列車を発車させなければよかった……』そう言っていました」

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