【ライター望月の駅弁膝栗毛】
伊豆箱根鉄道の主力といえば、何と言っても3000系電車。
おでこが出っ張った大きな2枚窓が、印象的な顔つきです。
最初の編成は、昭和54(1979)年デビューですっかりアラフォー世代。
でも、最後の編成は平成9(1997)年デビューでまだまだ若手といったところです。
懐かしいボックスシートの編成もあって、駅弁旅には最高の車両です。
そんな伊豆箱根鉄道・修善寺駅で駅弁を手掛けるのが「舞寿し」。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」はこれまで、伊東「祇園」、小淵沢「丸政」、水戸「しまだフーズ」、出水「松栄軒」、長岡「池田屋」、米沢「新杵屋」、松阪「あら竹」、横浜「崎陽軒」、姫路「まねき食品」の厨房(工場)に入ってきましたが、これらはいずれもJR中心の老舗駅弁屋さん。
今回は初めて、私鉄の駅弁屋さんにお話を伺いました。
「舞寿し」は通常、ご主人の武士東勢さんとお母様、奥様の3人で駅弁作り。
週末を中心にパートの方が1~2名加わるくらいの小さな駅弁屋さんです。
―「武士のあじ寿司」が有名ですが、「武士(たけし)」はご主人のお名前だそうですね?
武士東勢(たけし・とうせい)といいます。
生まれも育ちも修善寺で、父が駅弁を始めたので二代目となります。
昭和40年代かと思われますが、父が当時の修善寺駅の駅長さんから「ぜひやってほしい」と声をかけていただきました。
これを受ける形で、修善寺駅で駅弁を販売するようになったんです。
―「舞寿し」の屋号の由来は?
元々、修善寺駅前にあった寿司屋でした。
昭和50年代に入って私が店を継いだ時は、不二家のレストランとケーキ屋さんを並行しながら、寿司屋と駅弁もやっていました。
既に父は亡くなり、母が切り盛りしていたので、店の改装に当たって、寿司屋はもう続けられないということになって、駅弁用の屋号として「舞寿し」を残して、今の形になったんです。
―その頃は、どんな駅弁を作っていたんですか?
当時は一般的な幕の内、お好み弁当、サンドイッチといった弁当を販売していました。
釜めしもやっていたかと思います。
その中で、今も残っているのは、修善寺の特産・椎茸を使った「椎茸弁当」です。
なので、40年以上の歴史があります。
その頃は、今と違う四角い紐かけ式の弁当で、椎茸も今ほど入っていませんでした。
―確かに「椎茸弁当」は、少し雰囲気が変わりましたよね?
今のスタイルにモデルチェンジしたのは、4~5年くらい前のことです。
従来の「椎茸弁当」ではパンチが無かったので・・・。
「椎茸弁当」と名乗るからには、椎茸ごろごろ・・・とイメージされる方が多いと思うので、ハッキリさせたほうが椎茸大好きな方にはいいんじゃないかと今の形になりました。
(舞寿し・武士東勢さんインタビュー、つづく)
修善寺駅弁の中でも最古参となる「武士の椎茸弁当」(900円)は、修善寺産・干し椎茸の戻し汁で炊きあげたご飯の上に、無添加の山菜と肉厚の椎茸が6個ゴロゴロっと載った駅弁。
ご飯にはちょっぴり「おこげ」も見えて、手作り感もたっぷりです。
駅弁は継続的に見ていくと、竹の子煮や錦糸玉子の形など、「リニューアルポイント」も面白いところです。
次回は、なぜ「あじ寿司」が生まれたのか、その誕生秘話に迫ります。
連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/