広島駅弁当の前身「中島改良軒」創業のきっかけとなった内閣総理大臣とは? ~広島駅弁・広島駅弁当

By -  公開:  更新:

【ライター望月の駅弁膝栗毛】
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。

中国地方最大の都市・広島。この広島を拠点に、西日本エリアの駅弁を手掛ける「広島駅弁当株式会社」は、明治34(1901)年創業の中島改良軒をはじめとする、5社が合併してできた会社です。そもそも中島改良軒は、なぜ「駅弁」をはじめとした鉄道構内営業を手掛けるようになったのか? そのきっかけには、あの内閣総理大臣の存在がありました。「駅弁屋さんの厨房ですよ!」、今回からは広島駅弁当のトップにお話を伺います。

画像を見る(全10枚) 227系電車・普通列車、山陽本線・瀬野~中野東間

「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第34弾・広島駅弁当編(第2回/全6回)

神戸~門司間を結ぶ「山陽本線」は、私鉄の山陽鉄道が前身です。明治25(1892)年に三原(現・糸崎)まで開通しましたが、資金が枯渇してしまい、建設が中断。山陽鉄道は社債を発行して建設を再開し、明治27(1894)年6月に、広島まで開通にこぎつけました。その約2ヵ月後に起きた日清戦争で、山陽鉄道の重要性が一気に高まります。そして、広島駅弁当の前身・中島改良軒の創業者も、この戦争で人生が大きく変わりました。

(参考)広島県ホームページほか

広島駅弁当株式会社 中島和雄代表取締役

中島和雄(なかしま・かずお) 広島駅弁当株式会社・代表取締役

昭和23(1948)年6月2日、広島県広島市生まれ(73歳)。広島駅弁当の6代目社長。大学卒業後の昭和46(1971)年、広島駅弁当入社。平成11(1999)年から代表取締役。前身の中島改良軒を創業した中島卯吉(なかしま・うきち)は祖父。日本鉄道構内営業中央会副会長。

中島家ゆかりの神戸にあるD51形蒸気機関車

●総理大臣からの「褒美」で、山陽鉄道の機関士から鉄道構内営業へ!

―中島家のルーツを教えてください。

中島:祖父は、神戸出身で山陽鉄道(当時)の機関士を務めていました。日清戦争で、広島に大本営が設置された際、明治天皇の御召列車が運行され機関士を務めました。このとき祖父は、御召列車を定刻通り運行し、定位置ピッタリに停車させました。そのころ、列車が定時運行したり、定位置に停まるのはとても稀なことでした。祖父は、運行のあと、時の総理大臣・伊藤博文から呼び出しを受けたんです。

―明治の元勲は、お祖父様に何とおっしゃったのですか?

中島:祖父は伊藤博文から直接「見事であった。褒美を遣わす」とお褒めの言葉を頂戴しました。そこで祖父は、「広島駅で営業する権利をいただきたい」と言ったんです。しかし、当時の祖父はまだ19歳でしたので、選挙権が得られる25歳まで待ちなさいとなりました。そこで7年間待って、25歳になった明治34(1901)年に広島駅の構内営業権を与えられ、「中島改良軒」を創業したんです。

現在の広島駅(新幹線口)

●中島卯吉が「構内営業権」を欲した背景は?

―国のトップからのご褒美に、なぜ「構内営業権」を求めたのでしょうか?

中島:なぜ、祖父が構内営業をやりたいと伝えたのかはよくわかりませんし、古い文献は、原爆で焼けてしまったので、ほとんど残っていません。ただ、当時、神戸にあった料亭の東松軒(のちに列車食堂に携わり、日本食堂の前身となった)の支配人だった森崎家に、祖父の妹が嫁いでいました。このため、鉄道構内営業が、非常に魅力的な仕事であると感じていたようです。

―中島改良軒が創業するまで、広島駅の構内営業はどのようになっていたのですか?

中島:中島改良軒創業までの数年間、広島駅では、大阪駅弁・水了軒(当時)が支店を設けて営業を行っていました。祖父も水了軒の松塚家と懇意にしていたと聞いています。その意味では、(駅弁草創期において)水了軒とゆかりのある駅弁屋さんは多いんです。昔の水了軒さんは本当におおらかな会社で、のれん分けのようにして、全国各地の駅の構内営業を後押ししていったんですね。

現在の海田市駅

●広島・海田市の5社が合併してできた「広島駅弁当」

―現在の「広島駅弁当」は、どのようにしてできたんですか?

中島:昭和13(1938)年に国家総動員法が制定されました。当時は第一次世界大戦の教訓から、戦争に勝つためには国家が総力戦体制をとることが必須という認識が広まっていたんです。これを受けて、昭和18(1943)年に広島駅の「中島改良軒」「羽田別荘弁当部(現在は料亭)」「吉本屋」と、呉線が分岐する海田市駅で営業していた「山岡甲了軒」「大田山陽軒」の5社が合併して、「広島駅弁当株式会社」が設立されました。

―海田市駅は、いまでは普通列車でも広島駅から10分とかからない距離ですが、当時は、駅弁業者が2社も成立していたんですね。

中島:広島や海田市は、軍港の呉が近いこともあって「軍弁」の需要が大きい駅でした。このため、戦時中も広島駅弁当には、農林省から特別な配給が行われて、軍人向けの弁当を製造しました。(5社の統合にはさまざまな困難もあったとは思いますが)戦時中で、とにもかくにも、まずは軍隊への「軍弁」を供給するなど、戦争への協力体制が作られていったものと思われます。

廣島上等弁当

かつて駅弁は、「普通弁当」と「特殊弁当」に分かれていました。普通弁当とはいわゆる幕の内弁当のこと。特殊弁当は地域の特産などを使った弁当のことで、いまの主流です。この「普通弁当」でグレードが高かった上等弁当を、平成16(2004)年の山陽本線・糸崎~広島間開業110周年に合わせ、新たに発売したのが「廣島上等弁当」(1188円)です。いまの掛け紙は、明治34年の創業時のものを復刻。「中島改良軒」の文字も見えます。

廣島上等弁当

【おしながき】
(壱の重)
・白飯(広島県産あきろまん) 梅干し
(弐の重)
・ブリの照り焼き
・蒲鉾
・出汁巻き玉子
・煮物(椎茸、筍、蓮根、牛蒡)
・奈良漬け
・広島菜油炒め

廣島上等弁当

「廣島上等弁当」は、経木の折に詰められた二段重ね。当時は「上等弁当」の規格が、鉄道当局によって細かく決められており、弁当箱は六寸五分(約20cm)の二重折。使用材料は、「極製蒲鉾・テリ焼・玉子焼・煎り鶏・竹の子・椎茸・香の物二種」と指定されていました。その文献を丹念に追って、丁寧に復刻したのが、この「廣島上等弁当」です。白飯と梅干だけの素朴な一の重に、大きくカットされた野菜の煮物が古き時代の“無骨さ”を感じさせます。優しい味わいの煮物にも、どこか懐かしい雰囲気が感じられます。

227系電車・普通列車、山陽本線・新井口~西広島間

山陽本線は、戦後も東京~大阪~九州を結ぶ路線として、特急・急行列車が数多く行き交いました。しかし、昭和50(1975)年の山陽新幹線博多開業で、その役割を新幹線に譲り、貨物とローカル輸送がメインとなります。80年代からは広島駅を中心に普通列車が概ね15分間隔のダイヤで組まれ、その取り組みは全国へと広がっていきました。次回は、戦後の復興から昭和の駅弁の話を、一気に伺います。

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

Page top