「日本食堂」×「日本ばし大増」 2つのルーツを持つ駅弁屋さん、その軌跡

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【ライター望月の駅弁膝栗毛】
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。

東京駅をはじめ、首都圏主要駅で販売されている日本ばし大増の駅弁。いまの日本ばし大増には、「日本食堂」と、もともとの「日本ばし大増」という2つのルーツがあります。それぞれの会社は、どのように生まれ、どのように出会い、1つの会社になっていったのか? 日本ばし大増のトップに伺いました。

E261系電車・特急「サフィール踊り子」、東海道本線・茅ヶ崎~平塚間

E261系電車・特急「サフィール踊り子」、東海道本線・茅ヶ崎~平塚間

「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第40弾・日本ばし大増編(第2回/全6回)

東京と伊豆急下田を結んでいる特急「サフィール踊り子」が、相模川(馬入川)を渡って、茅ケ崎から平塚へと入っていきます。全てグリーン車指定席の列車ですが、4号車には、「食堂車」を示す車両も連結されています。昔の長距離列車には、食堂車がありました。静岡出身の私も、夕方の下り“湘南電車”に乗ると、平塚や小田原で抜いていくブルートレインが、食堂車だけ暖色系のあったかい光を放っていた記憶がよみがえります。

そんな列車食堂を担っていた「日本食堂」と、江戸・東京の食文化を担ってきた「日本ばし大増」という2つのルーツを持つのが、東京・上野・新宿をはじめとした首都圏主要駅の駅弁を製造している「株式会社日本ばし大増」です。駅弁膝栗毛恒例「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第40弾は、日本ばし大増の穐山健輔(あきやま・けんすけ)代表取締役社長に、お話を伺ってまいります。

日本ばし大増・穐山社長(日本食堂時代の「幕の内弁当」掛け紙と共に)

日本ばし大増・穐山社長(日本食堂時代の「幕の内弁当」掛け紙と共に)

<プロフィール>

■穐山健輔(あきやま・けんすけ) 日本ばし大増 代表取締役社長

昭和43(1968)年、神奈川県平塚市生まれ(54歳)。東京・下町出身のご両親の下で育ち、平成4(1992)年、JR東日本に入社。新宿駅の駅員などさまざまな現場を経験。20代の終わりに日本食堂(のちの日本レストランエンタプライズ・NRE)に出向し、営業を担当した後、東日本キヨスク(現・JR東日本クロスステーション)でNEWDAYSの立ち上げに携わる。その後、ジェフユナイテッド市原・千葉で取締役を務め、女子チームのプロ化に取り組み、令和2(2020)年6月から現職。日本ばし大増社長としては15代目。

寝台特急「北斗星4号」の食堂車・グランシャリオにて筆者(2006年撮影)

寝台特急「北斗星4号」の食堂車・グランシャリオにて筆者(2006年撮影)

●「日本食堂(にっぽん・しょくどう)」とは?

―「日本食堂」は、「みかど・精養軒・東松軒・東洋軒・共進亭・伯養軒」6社の出資で、昭和13(1938)年にできたそうですが、なぜ、この時期に作られたのでしょうか?

穐山:日本の列車食堂は、明治30年代に神戸を本社とした山陽鉄道から始まりました。その後、鉄道網が拡大し、食堂車を連結した列車がより長い距離を運行するようになり、サービスレベルの向上も求められるようになってきました。そこで、鉄道省(当時)が主導する形で食堂車を営業していた6社が共同で立ち上げた勉強会が6社の列車食堂部門を分離して共同の新しい会社とする結論を出し、「日本食堂」が生まれたと云われます。

―なぜ、「日本食堂」という社名になったのでしょうか?

穐山:「日本食堂」という社名に落ち着くまで、さまざまな議論(注)があったと聞いています。昭和の初めごろは「食堂」という日本語もあまり根付いていなかったようで、多くの人が集まって食事をするという文化も希薄だったそうです。創業当初は「日本食・堂」と読む人もいて、「洋食はないんですか?」と訊く人もいたと言います。当時としてはハイカラでモダンなイメージのあるネーミングだったのではないでしょうか。

(注)実際、「日本列車食堂」「日本産業」などの案があったが、将来的には駅の食堂や弁当の製造販売、ホテル経営などを視野に入れていたことも、「日本食堂」という社名につながったという(参考文献「日本食堂六十年史」)。

日本橋

日本橋

●「日本ばし大増」とは?

―一方、「日本ばし大増」は、明治33(1900)年の創業ですが、その屋号の由来は?

穐山:創業者の高村増太郎(たかむら・ますたろう)に由来します。高村氏は15歳から日本橋魚河岸の「大力(だいりき)商店」で修業をしていました。23歳のとき、「大力商店」の“大”と、自分の名前「増太郎」の“増”をとり、明治33(1900)年に独立を果たしました。「ばし」がひらがなの理由は、よくわかっていませんが、研究をされた皆さんの推察では、当時は“日本橋エリア”を示すときには、「日本ばし」と表記したのだそうです。

―「日本ばし大増」が、デパ地下の「弁当作り」に携わるようになった経緯は?

穐山:増太郎は鮮魚仲買として大増を立ち上げ、大正の初め、浅草で「奥の大増」という料亭を開きました。当時の絵葉書にも「大増」の看板が描かれています。大正12(1923)年には日本橋室町に店舗兼工場を作り、野菜の煮物が評判になりました。こちらは震災、戦災で焼けてしまうんですが、戦後の昭和33(1958)年、築地に店舗兼調理工場を新設して、約5年後には、百貨店の食品売場で弁当や総菜を手掛けるようになりました。

20年前の「深川めし」と「チキン弁当」(日本レストラン調理センター製造、2003年撮影)

20年前の「深川めし」と「チキン弁当」(日本レストラン調理センター製造、2003年撮影)

●東京らしい駅弁屋さんを目指して

―「日本食堂」から現在の「日本ばし大増」までの流れを簡単にご説明いただけますか?

穐山:日本食堂は、創業60周年の平成10(1998)年に「日本レストランエンタプライズ(NRE)」と社名変更いたしました。弊社は、それに先立つ平成2(1990)年、日本食堂の弁当製造子会社「株式会社日本食堂調理センター」として始まりました(のちに日本レストラン調理センター)。そのなかで首都・東京の弁当店として、「東京らしさをいかにだすか?」「どういうブランドを打ち出していくか?」という、難しい課題に日々取り組んでいました。

―NREが「日本ばし大増」との結びつきを強めたきっかけは?

穐山:「日本ばし大増」は、百貨店を中心に展開し江戸の食文化を伝えていました。この「日本ばし大増」の株式を保有していた大手食品会社がNREと取引があり、株式譲渡のご提案を受け、「東京らしさ」を強化したいNREにとっては貴重な財産になるということで、平成15(2003)年、合併して「NRE大増」となりました。平成30(2018)年には、江戸・東京の味の伝承を強く打ち出すべく、「株式会社日本ばし大増」と社名を変更しました。

幕之内弁当

幕之内弁当

日本食堂にルーツを持つ駅弁の基本にして、日本ばし大増自慢の煮物もたっぷり入った駅弁といえば、「幕之内弁当」(1180円)です。令和3(2021)年1月にリニューアルされ、江戸時代の歌舞伎風のパッケージから、明治時代、鉄道草創期の風景が描かれたデザインとなりました。これは幕の内弁当という食文化が、鉄道・駅弁を通じて全国に広まったとされることにちなんだと言います。

【おしながき】
・白飯 梅干し ごま
・銀鮭の塩焼き(国産)
・きくらげ入り揚げ蒲鉾
・玉子焼き
・海老磯辺揚げ
・軟骨入り鶏つくね揚げ 和風たれ和え パプリカ素揚げ
・煮物(人参、いんげん、こんにゃく、がんも)
・ひじき煮 グリーンピース
・青唐辛子味噌

幕之内弁当

幕之内弁当

幕の内弁当には、焼き魚・蒲鉾・玉子焼きという3つのおかずが入っているのが基本とされ、“幕の内弁当・三種の神器”と呼ばれています。日本ばし大増の「幕之内弁当」では、銀鮭の塩焼き、玉子焼きは基本に忠実に、蒲鉾は「きくらげ入りの揚げ蒲鉾」とアレンジ。日本ばし大増由来の野菜の旨煮は、野菜の切り方、火の通し方、味付け、冷まし方など、全ての工程にきちんと“決まり”があるそうで、上品な味わいに仕上がっています。

E235系・普通列車、山手線・五反田~目黒間

E235系・普通列車、山手線・五反田~目黒間

昨年(2022年)は、鉄道開業150年に合わせ、さまざまな列車が走りました。山手線にも、「鉄道開業150年」の記念ヘッドマークを付けた、蒸気機関車をイメージしたという、黒いラッピング車両が運行されました(現在は運行終了)。鉄道150年の歴史の草創期から、旅のお供として親しまれてきた「駅弁」と「食堂車」。次回は、日本食堂の歴史を中心に、あの名物駅弁が生まれた背景を探ります。

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

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