東海道本線・沼津駅では、なぜ「駅弁」が売れたのか?
公開: 更新:
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
静岡県出身の私自身、20歳代の終わりごろまで、東京~静岡間の移動には、もっぱら東海道本線の普通列車を利用していました。夕方、東京から静岡行の下り普通列車に乗車すると、平塚や小田原、沼津といった駅で寝台特急の通過待ちがあったものです。なかには、沼津で20分前後停車する列車もあり、ホームで何か食べられるものはないか、自然と売店に足が向きました。なぜ、人は昔から、沼津で「駅弁」を欲したのでしょうか?
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第49弾・桃中軒編(第3回/全6回)
東京と伊豆の温泉地を結んでいる特急「踊り子」号には、1日2往復(週末は3往復)、修善寺発着で運行される列車があります。このような東京から修善寺へ向かう列車は、東海道本線がまだ御殿場回りだった昭和8(1933)年から、週末に三島駅(当時、現・御殿場線下土狩駅)経由で駿豆鉄道(当時)へ運行されていました。富士山を望みながら鉄道の旅を楽しめるのも、修善寺「踊り子」ならではの特長です。
明治22(1889)年に開業した東海道本線沼津駅。明治26(1893)年には、沼津御用邸が作られ、沼津は要人の避暑地としても発展していきます。一方で御殿場回りの急勾配は、沼津で補助機関車を連結・切り離しする必要を生みました。沼津駅には機関庫が置かれ「鉄道のまち」としても発展を遂げていくことになります。そんな沼津駅で、なぜ「駅弁」が売れたのか? 株式会社桃中軒の宇野秀彦代表取締役社長に聞きました。
●「機関車の付け替え」が生んだ、沼津の駅弁需要!
―沼津駅で「駅弁」が売れた理由は、ズバリ何でしょうか?
宇野:補助機関車の連結作業のために、沼津駅の停車時間が長かったのが第一だと思います。加えて、東京からの距離感ですね。よく「沼津まで“ぬまず”くわずで……」と言われたように3~4時間ほど乗車して、ちょうどお腹が空いてくるタイミングの場所に沼津駅があったわけです。さらに東西を移動する軍隊の需要も大きかったと聞いています。富士山の裾野には、陸軍の演習場がありましたから(注)。
(注)現在は、陸上自衛隊の東富士演習場などとなっている。
―昭和9(1934)年、丹那トンネルの開通で、東海道本線が御殿場回りから熱海回りになって、どんな影響がありましたか?
宇野:所要時間が短縮されて東京~沼津間の距離感は変わりましたが、同時に東海道本線が沼津まで電化されました。しかし、沼津以西は非電化でしたので、沼津では全ての列車が停車し、電気機関車と蒸気機関車の付け替えが行われることになりました。文献によると、運行本数も増えて、沼津駅の年間乗降客も約176万人(1930年)から、約214万人(1935年)と大幅に増えたということです。
●軍隊と密接な関係だった、戦前の鉄道
―駅弁も盛況になった様子が伺えますが、その後、戦時体制に入っていくと、いわゆる「軍弁」も、大きなウェイトがあったそうですね?
宇野:昔の文献には、「桃中軒は軍隊向け弁当の製造に追われた」と記しているものがあります。(鉄道による軍隊の移動だけでなく)三島には陸軍の野戦重砲連隊が置かれていましたし、沼津には昭和16(1941)年から海軍技術研究所の音響研究部門が置かれたことで、弁当の販路は拡大されていったようです。ただ、戦況の悪化で、終戦直前、昭和20(1945)年7月17日には、沼津も空襲を受けることになります。
(参考)沼津史談会資料、沼津観光協会HPほか
―戦時下でも桃中軒が駅弁作りを休んだのは、沼津が空襲を受けたときくらい……そんな文献を読んだことがありますが?
宇野:ほとんど休んでいないと思います。桃中軒の工場はその当時、沼津駅前にありました(昭和3年築の西洋館)が、沼津空襲による被害は、本社社屋などの2階・3階は焼いたものの、1階の工場部分は無傷だったんです。ですので、その工場は稼働させて営業を継続していたと言います。その意味でも、軍隊さんの需要を最優先でやっていたということなんだろうと思います。
●「甘いもの」を欲した、昔の人たち
―一方で、戦後は戦後で大変だったのでしょうね?
宇野:食糧事情が厳しく、米がなかなか入らなくなり、代用食の弁当で凌ぎました。さつまいもを使った「いも弁当」や焼はんぺんにハムを挟んだサンドイッチ、私の祖父で4代目当主(2代目社長)となる宇野三郎が考案したサッカリン(現在は使用制限あり)とズルチン(現在は使用不可)を水に溶かして“アイスティー”と称した飲み物などを販売して、大当たりしたと言います。それだけ当時は、「甘いもの」を欲する方が多かったのではないかと思われます。
―甘いものといえば「鯛めし」は、東海道本線の各駅弁業者が趣向を凝らして販売していますが、桃中軒ではどんな工夫をされていますか?
宇野:昔の文献で弊社社員が語っているところによると、他の駅弁屋さんは、タイの身をほぐしたような食感にしているのに対し、弊社は白身魚の身を完全に粉砕してしまう加工法をしていると。現在も基本的には同じで、マダイをはじめとした様々な魚の身を水にさらして、細かくフワッとした軽い食感の鯛そぼろに仕上げています。詳しい発売時期はわかりませんが、秀吉が3代目当主(初代社長)となった明治の終わりごろからある駅弁です。
大きな鯛の絵と一緒に、伊豆半島の付け根から、駿河湾越しに沼津のまちと富士山が描かれた桃中軒の「鯛めし」(840円)。この掛け紙のデザインは変わりませんが、中身はお客様アンケートなどを取りながら、日々改良が行われていると言います。これまでにも、醤油飯と鯛そぼろを別盛りにした時期もあれば、鯛そぼろがこぼれにくい折箱を採用することもあるなど、“進化をやめない駅弁”の1つと言ってもいいでしょう。
【おしながき】
・鯛めし(醤油飯、鯛そぼろ)
・白身魚西京焼き
・鶏つくね
・黒はんぺんの磯辺揚げ
・しば漬け
・わさび漬け
・抹茶わらび餅
軽い食感の細かい鯛そぼろが特徴の桃中軒の「鯛めし」。ただ、食感は軽くても、鯛の味はしっかりしています。桃中軒によると、淡白な真鯛に、他の種類の鯛を混ぜることで、味に深みを出していると言います。おかずの黒はんぺんの磯辺揚げ、デザートの抹茶わらび餅と静岡らしさも感じさせます。ちなみにわさび漬けは、鯛めしや黒はんぺんに添えて、お好みで醤油をつけていただくことが推奨されています。
かつては東海道本線を行き交う長距離列車の多くが、機関車が客車を引っ張るタイプの列車でしたが、いま、東海道本線(東京~神戸間)を全線走破する唯一の定期列車で、沼津にも停まる寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」号は、電車による運転となっています。日本で客車列車から電車列車が主流になっていったきっかけも、沼津駅が1つの舞台となりました。次回はその歴史と共に、昭和後半の駅弁事情を伺います。
この記事の画像(全10枚)
連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/