【ライター望月の駅弁膝栗毛】
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E3系「つばさ」
米沢駅に入ってきたE3系・山形新幹線「つばさ」号。
従来はシルバーにグリーンのカラーリングでしたが、平成26(2014)年から地元出身のデザイナー・奥山清行氏のデザインに変更されました。
現在は山形の県鳥「おしどり」をモチーフにした紫色、県の花「紅花」をモチーフにした赤や黄色、「蔵王の雪」をイメージした白のカラーリングになっています。
(参考)JR東日本プレスリリース、2014年3月4日付
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新杵屋(米沢駅売店)
そんな「つばさ」号の車内販売でもおなじみの米沢駅弁といえば、「新杵屋」の「牛肉どまん中」。
もちろん、米沢駅の1番ホーム売店でも販売されています。
米沢駅には駅弁屋さんが2軒ありますので、改札脇のベストポジションは、1日ごとに交代する仕組みとなっています。
コチラの売店にも、駅前の本社工場から随時、出来たての駅弁が補充されています。
●和菓子屋さんから始まった「新杵屋」
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新杵屋・舩山栄太郎社長
舩山栄太郎(ふなやま・えいたろう)社長、昭和13(1938)年生まれの79歳。
「新杵屋」の三代目です。
―「舩山家」は元々、米沢なんですか?
私自身は米沢生まれですが、初代は「荒砥(あらと)」(山形県白鷹町、山形鉄道・フラワー長井線の終着駅付近)の出身です。
早く両親を亡くしたので親戚に預けられ、若いうちに菓子屋に修業に入ったと聞いています。
荒砥では、だいたい大正の頃まで「新栄堂」という和菓子屋をやっていました。
その後は米沢に出てきて、「新杵屋」という菓子屋を開きました。
―新杵屋の「新」には、どんな意味があるんですか?
山形には「杵屋本店」という大きなお菓子屋さんがあります。
最初は、宮内(みやうち、現・山形県南陽市)から始まったお菓子屋さんです。
初代は荒砥から宮内まで出てきて修業をし、荒砥に戻って、自分で和菓子の店を出しました。
商売が軌道に乗ってくると子供たちにちゃんと学校に行かせたい思いが強くなって米沢へ転居。
杵屋さんの系譜を継ぐ店として「新杵屋」としたようです。
●10年かかって獲得した駅弁の販売権!
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和菓子屋時代のエッセンスがギュッと詰まった「秘伝のたれ」
―米沢駅で構内営業を始めることになったきっかけは?
終戦後、昭和天皇が山形にも、夏の暑い頃に、巡幸にいらっしゃいました。
陛下は、米沢駅でしばしご休憩されることになりました。
それというのも当時、奥羽本線の列車は、板谷峠を越えるために機関車の交換があり、米沢で10分ほど停車するのが一般的だったんです。
ちょうどその時、米沢駅前にあった「新杵屋」ではアイスクリームを作っていました。
そこで、「陛下にアイスクリームを・・・」というお話をいただき、献上させていただきました。
これをきっかけに「新杵屋」は、米沢駅で「アイス・パン・牛乳は販売してもいい」ということで、当時の新潟鉄道管理局(注)に認めていただきました。
(注)「鉄道管理局」
国鉄時代の組織の名称。JRの「支社」に相当する。米沢には新潟方面から米坂線(よねさかせん)が乗り入れているため、当時は新潟鉄道管理局管内だった。後に奥羽本線ということで、秋田鉄道管理局管内となり、JR以降、現在の米沢駅は「仙台支社」のエリアとなっている。
―アイスクリームからお弁当・・・どう繋がるんですか?
問題は「冬」なんです。
冬は雪で、寒くて、(アイスクリームは)全く売れないんです。
ましてや当時は、(客車列車の)蒸気暖房だから、全く温まらない・・・。
これではどうしようもないということで、「弁当を売らせてくれませんか?」とお願いしたんです。
でも、許可が下りるまでに10年かかりました。
それというのも、米沢ではすでに明治時代から「松川弁当店」が駅弁を販売していました。
だから、米沢に2軒あっても売れないだろうといわれたんです。
加えて、当時の国鉄の駅長さんは、大体2年でほかの駅に移ってしまっていました。
ようやく話がまとまって来たかなぁと思ったところで、人事異動があると、また出直しなんです。
もう10年なんてあっという間でした。
(それでも粘り強く交渉を続けて)ようやく「松川弁当店さんと同じ商品はダメ」という条件で、駅弁を売ることが出来るようになりました。
●逆境から生まれた東北初の牛肉駅弁!
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元祖牛肉弁当
―最初の駅弁が、「牛肉弁当」になったのはどうしてですか?
当時、松川弁当店さんが出していた駅弁は、「鯉弁当」と「幕の内弁当」でした。
だから、これ以外の駅弁を作らなくてはイケません。
そこで出てきたのが、「洋食弁当」と「牛肉弁当」なんです。
東北では初めての牛肉駅弁でした。
加えて、東北初めてのおかずをご飯の上に載せた「載せ弁」でもありました。
白いご飯とおかずが分かれた「幕の内」がダメなので、「肉を載せる」しかなかったんです。
ただ、またここで「冬」に問題が起こりました。
寒いので、肉の脂が固くなってしまうんです。
雪が吹きこむホームでの立ち売りで、たとえ毛布にくるんでも、厳しいんです。
(この時の経験から)いろいろ試行錯誤しまして、今では調理方法も変えて、そういうことは無くなりました。
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元祖牛肉弁当
―当時は肉料理自体も大変だったでしょうね?
まず肉を集めるのがタイヘンでした。
ただ、肉を仕入れればいいという訳ではなく、程よい脂になるものを仕入れなくてはいけません。
(駅弁)10~20個分なら肉屋さんを回ってくれば、仕入れられなくもありませんが、200~300個で、しかも毎日となると、そう集まりません。
1頭の牛さんから駅弁に使える牛肉の量は、特定の部位100キロとかしかありません。
だから、残りの400キロの販路があるお店じゃないと厳しいわけです。
その中から条件が適った卸屋さんにお願いして、まとめて大量に仕入れるようになり、今も続いています。
(舩山社長インタビュー、続く)
元祖牛肉弁当
【お品書き】
白飯(山形県産米)
牛肉煮
糸こんにゃく煮
ふき煮
高野豆腐煮
ごぼう土佐煮
酢れんこん
にしん昆布煮
きゅうり漬
うぐいす豆
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元祖牛肉弁当
今も「新杵屋」の駅弁のラインナップに輝く「元祖牛肉弁当」(1,000円)。
昭和32(1957)年発売開始といいますから、今年でちょうど“還暦”を迎えました。
今や当たり前となったご飯の上に牛肉がのった「載せ弁」の先駆けが、実はこの駅弁!
舩山社長によれば、米沢は精肉店というのがあまり無くて、ほとんど「牛肉店」なんだそう。
昔から米沢で育まれてきた「牛肉文化」が、この折詰にギュッと凝縮されているわけです。
次回は、「新杵屋」のこだわりについて伺っていきます。
連載情報
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ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/