【ライター望月の駅弁膝栗毛】
富山の県庁所在地・富山市の玄関、富山駅。
JR北陸新幹線・高山本線に加え、あいの風とやま鉄道(旧・北陸本線)、富山地方鉄道(地鉄)、富山ライトレール(旧・富山港線)が乗り入れ、大きな交通の結節点となっています。
特に新幹線改札口の目の前が、路面電車のりばというギャップも興味深いところ。
最近は富山の路面電車を活かした街づくりも、よく知られるようになってきました。
この富山駅で、明治41(1908)年に駅弁の販売を始め、今年(2018年)で110年の節目を迎える駅弁屋さんが「源」です。
看板駅弁は、明治45(1912)年に発売した、ご存知「ますのすし」。
「ますのすし」は駅弁という枠組みを超え、すっかり“富山名物”として定着しています。
果たして、そこへ至るまでの道のりは、どんなものだったのか、お話を伺ったのは・・・?
「株式会社 源」の源和之(みなもと・かずゆき)社長。
昭和53(1978)年生まれの40歳、駅弁を始めた初代から数えて6代目に当たります。
先祖は源平合戦の頃、義経の平家討伐に功があり、「源」の姓を与えられたのだそう。
北陸・富山の地で800年以上にわたって続く、由緒ある源家です。
●富山随一の旅館から始まった「源」
―江戸時代以降、旅館をされていた「源」が、今年で駅弁を始められて110年となりますが、駅弁に入られたきっかけは?
きっかけは、官営の北陸本線が富山まで通じたことです。
当時の鉄道院が、いわゆる「駅ナカ」の利用者の便を図るために、一業種一業者で、地元に参加者を募り、源を含め2~3社の立候補があったと聞いています。
手前味噌ではありますが「富山ホテル」(当時の屋号)は、富山で一番大きな旅館でした。
そして、創業者を含め、経営者は代々、文化的なものに造詣があったことから、皇族の方や芸術家などを宿に招いて交流を持っていたそうです。
そういう点も評価され、(駅弁屋さんに)選んでいただいたようです。―しばらくは、お宿と駅弁、両方やっていたんですか?
当時、旅館は(富山市内の)桜木町という所にありましたが、富山駅からは少し離れた所にあったので、駅前支店を作りました。
この(富山ホテル)駅前支店が、今の「源」の元となったお店です。
ただ、北陸本線は、その後も糸魚川のほうへ延伸されて、東京方面と繋がっていきました。
このため、富山で宿泊をする方も減ってきて、旅館は閉めることになり、以来、「駅弁」一本ということになりました。●富山に「駅弁」を定着させるために必死の努力!
―明治45(1912)年に「ますのすし」が出来る前は、鮎寿しが人気だったそうですが、どうして「ます」という食材にこだわったんですか?
「ます」の押寿しのほうが、圧倒的に美味しかったからです。
スグに駅弁化できなかったのは、サクラマスが獲れる期間が例年、遡上する4月中旬から6月上旬までと限られていたことと、当時は冷蔵・冷凍の設備も無かったことが理由です。
一方で、鮎は3月下旬から9月上旬まで獲れる“大衆魚”でした。
ですから、駅弁にしやすくて、よく売れていたんです。
ただ、当時の台帳を見ると寿し類では鮎寿しが人気ではあったんですが、実はサンドイッチのほうがよく売れていたようです。―「ますのすし」がヒットするまでは、大変なご苦労をされたんでしょうね?
昭和に入るまでは、まだまだ「富山の郷土料理」の全国への認知度は低かったと思います。
創業当初のことが書かれた文献を見ると、駅ナカの商売はホントに売れなかったとあります。
台帳とにらめっこしながら、日々夜逃げのことを考えたり、何とかして売り上げを伸ばそうと、朝から餅をついて振舞まったり、駅弁より他のことをたくさんやっていた記録が残っています。●戦争が潮目となった「駅弁」
―それだけ、昔の方にとって「鉄道は高嶺の花だった」かと思いますが、その流れが変わってきたのは、どんなことがきっかけですか?
源に限らず、全国の駅弁屋さんの大きな転機になったのが、悪いイメージしかないと思いますが、実は「戦争」なんです。
戦争中に配給制度が作られた際、配給弁当が地元の皆さんの食生活を支えました。
その中で駅弁屋が「地元の味」として認識されるようになり、駅弁屋は「大量生産」のノウハウを習得していきました。―戦後の反動も大きかったでしょうね?
戦争が終わると辛い試練の時期となりまして、お米すら手に入らなくなってしまいました。
その中で如何にいい食材を沢山確保できるか奮闘したことが、駅弁屋の活力となりました。
つまり、戦後の混乱期に全国を飛び回って食材確保に苦労した経験が、後に品質のいい「美味しい駅弁」を提供する上での基盤になったと聞いています。
(源・源和之社長インタビュー、つづく)
ぶりのすし戦後、食糧事情が改善し、高度経済成長のレールをひた走り始めた日本。
昭和31(1956)年度の経済白書は、「もはや戦後ではない」と謳いました。
その翌年(1957年)、富山駅弁「源」が発売したのが「ぶりのすし」(1500円)です。
パッケージの絵は、イラストレーター・吉田カツ氏(1939~2011)によるもの。
富山の「県のさかな」の1つでもあるブリの“青い目玉”が、強い印象を与えます。
ちなみに、ニッポン放送をはじめフジサンケイグループは“赤い目玉”マークがシンボルですが、実はこのデザインも吉田カツ氏なんですよね。
「ぶりのすし」を考案したのは、源・三代目の源初太郎氏。
“ますのすしに並ぶ、ふるさとの味を作りたい”
“富山の美味しい食材の1つ・鰤を使った料理で、もっと多くの方に富山を知ってもらいたい”
そんな思いから、およそ3年にわたって試行錯誤を繰り返して作り上げたといいます。
富山では初めてとなるブリを使った押寿しだそうで、源・オリジナルの押寿しです。
「ぶりのすし」のベースにあるのは、「かぶら寿司」。
富山をはじめ、北陸地方を代表する郷土の味の1つです。
「ぶりのすし」は昆布としょうがを隠し味に、程よく脂がのったブリと、歯ごたえの良いあっさりとしたかぶらが絶妙な風味を作り出しています。
個人的に「ぶりのすし」の陰のMVPと呼びたいのは、「昆布と人参」。
見た目の華やかさはもちろん、ブリの濃いめの味わいの中に混じってくるコリっとした食感が、食べ進めていく中で、いいアクセントになるように感じます。
「ぶりのすし」が最も似合いそうな路線といえば、高岡~氷見間のJR氷見線。
特に雨晴海岸は、富山湾越しの立山連峰が望める絶景区間として有名です。
北陸新幹線開業後、週末を中心に運行されている観光列車が、キハ40形気動車を改造して生まれた全車指定の快速「ベル・モンターニュ・エ・メール」、略称「べるもんた」です。
原則1日2往復、土曜日が城端線、日曜日が氷見線での運行となっています。
次回は、この天然のいけす・富山湾ゆかりの駅弁が登場します。
連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/