日産復活はあるのか?【1】 創業の地から車両工場消滅へ

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ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム「報道部畑中デスクの独り言」(第433回)

今年も猛暑に見舞われた夏でしたが、この会社にとってはより厳しい夏だったかもしれません。経営再建を急ぐ日産自動車は、神奈川県横須賀市にある追浜工場の車両生産を終了すると発表しました。終了期日は2027年度末。あと2年半あまりで60年以上に及ぶ歴史ある工場の車両生産にピリオドが打たれることになります。現在、生産中の車両は「ノート」「ノートオーラ」の2車種。これらは福岡県苅田町の九州工場(子会社の日産自動車九州)に移管されます。発表内容を改めて振り返ります。

日産・追浜工場の看板

日産・追浜工場の看板

7月15日午後3時前、私の元に一通のプレスリリースが届きました。「日産自動車、追浜工場の車両生産を日産自動車九州に統合へ」、ついにこの日が来た。それからおよそ2時間後、横浜の日産本社でイヴァン・エスピノーサ社長の記者会見となったわけです。

「極めて大きな痛みを伴う改革、苦渋の判断だった。しかし、日産が現在の厳しい状況から脱し、再び成長軌道に戻るためにはやらなければならない」

大きな痛み、苦渋の決断……、このフレーズを聞いて、ほぼ四半世紀前、日産リバイバルプランを発表したカルロス・ゴーン氏の会見が蘇ってきました。またも同じことが繰り返されるのか。日産ファンにとっては忸怩たる思いでしょう。「痛み」の部分はゴーン氏が日本語だったのに対し、エスピノーサ社長は英語のままでした。

日産・追浜工場入口

日産・追浜工場入口

エスピノーサ社長は若干緊張しているように見えましたが、語り口は冷静で淡々としたものでした。また、追浜工場について「閉鎖」という表現は用いませんでした。生産能力、コスト競争力、生産集約により新たな投資などを包括的に検討した結果、「追浜工場のコンパクトカー生産を吸収に移管・統合することが最適という結論にいたった」と話します。生産移管により、九州工場の稼働率100%、中長期的に国内における生産コスト約15%削減を見込んでいます。

日産によれば、追浜工場は全体で約4000人が働いており、このうち、工場従業員では約2400人に上ります。今後は他の生産工場、あるいは他部門に異動することが考えられますが、ことは単純ではありません。組合とも協議を重ね、従業員に対して「全力でサポートする」と、エスピノーサ社長は話しました。

工場はいくつものブロックに分かれる

工場はいくつものブロックに分かれる

会見では生産を終了する追浜工場の活用方法についての質問が繰り返されましたが、エスピノーサ社長は複数のパートナーと協議していることは認めたものの、詳細は秘密保持契約を盾に明言を避けました。「資産を売却する、または使う目的を変える」という表現で、様々なシナリオを検討しているということです。これは現在も続いているもようです。

なお、研究施設や「グランドライブ」と呼ばれるテストコース、衝突試験場、専用埠頭など、工場周辺の機能については、今後も継続するということです。私は会見で「継続は半永久的なものか?今後、段階的に整理される可能性はあるか?」と念を押したところ、エスピノーサ社長は「恒常的に運営する。止める予定はない」と明言しました。

工場の外は長い塀が続く

工場の外は長い塀が続く

生産終了の発表から1カ月あまり、工場のある追浜に足を運びました。工場の外にはセミの鳴き声が響き、炎天下ではありましたが、周辺は穏やかな空気が流れていました。実はどれぐらいの広さか、周辺を歩いてみましたが、工場はいくつものブロックに分かれ、歩けど歩けど塀が続きます。途中30分ほどでギブアップしました。いやはや広大な敷地です。工場からは夕方、関係者が出てきましたが、皆さん言葉少なでした。一方、最寄り駅の追浜駅、駅前の商店街は後継者不足の影響もあり、シャッターが下りたままの店舗が目立ちました。

1961年に操業を開始した追浜工場はダットサン・ブルーバード(初代)の生産から始まり、生産台数は累計約1780万台に上ります。エスピノーサ社長は追浜工場を「日産のアイコン」、追浜で生産された車両は「“技術の日産”の象徴であり、私たちの誇りである」と語りました。日産にはかつて「世界の恋人」というテーマソングがありました。女性のスキャットから始まる有名な曲です。追浜工場はまさに「世界の恋人」という曲がぴったりくる工場だと思います。

研究施設は維持される

研究施設は維持される

一方、会見では追浜工場に加えて、上場子会社である日産車体の神奈川県平塚市の湘南工場の委託生産終了も明らかにされました。現在生産している小型商用車のADは今年2025年10月に生産終了、NV200バネットも2026年度末に終了します。NV200バネットの次期型は2027年度に投入されるものの、湘南工場では生産されないということです。生産終了後の工場の処遇については、「日産ファミリーの一員として責任を持って対応する」としながらも、決めるのは日産車体としています。

NV200バネットの生産委託を2026年度に終了することで、日産車体湘南工場で生産される日産車はなくなることになります。日産車体は日産の発表を受けて、湘南工場の今後についてプレスリリースを発表します。

「車両生産委託の可能性を模索しつつ、特装車・サービス部品生産をはじめとするサポート事業を担うことも視野に入れ、従業員の雇用を最優先に、あらゆる可能性を検討」

「グランドライブ」と呼ばれるテストコースも残るという

「グランドライブ」と呼ばれるテストコースも残るという

日産車体については、5年前の小欄で取り上げたことがあります。改めて要約します。

1937年に創立された日本航空工業が前身。戦後は新日国工業などと社名を変えて鉄道車両、自動車分野に転換、日産とはバスの車体受注で接点を持ちますが、1951年、警察予備隊の要望を受けて日産が開発した4輪駆動車の生産を委託され、これを機に日産グループ入りします。車両は「パトロール」と名付けられ、現在も海外向けSUVとして日産車体が生産しています。その後、日産車体工機を経て1971年に現在の社名となります。

日産グループに入ってからはパトロール、小型トラックのダットサン・ピックアップなど主に商用車を担いますが、特筆されるのはスポーツカーの生産。1962年、オープンボディのダットサン・フェアレディからスタートし、1969年に初代フェアレディZ(S30型)が誕生します。米国日産社長を務めた片山豊さんがアメリカで勝負できるクルマの必要性を訴え、量産にこぎつけたスポーツカーでした。日産本体は当時、このクルマの開発に積極的でなく、生産は日産車体に。しかし、本体の意向をよそに初代Zは世界で約55万台を販売し、スポーツカーのベストセラーになります。特に海外では「DATSUN Z」(ダットサン ズィ―)としてダットサン=日産のブランド向上に大きく貢献しました。

日産車体湘南工場(2020年3月撮影)

日産車体湘南工場(2020年3月撮影)

日産は時折、他社に先駆けて、新しいジャンルの車種を投入することがありましたが、その中には日産車体によるものが少なくありません。当初は異端とされた車種でも、ふたを開けてみれば、大ヒットというクルマもありました。フェアレディZのほかにも、高級ミニバンの嚆矢となるエルグランド、NV200バネットから派生したタクシー仕様は、アメリカでイエローキャブとして採用されました。

“脇役”ではありますが、しっかり本体を支える存在だった日産車体。これまでの小欄では、日産の工場を語る時、栃木、追浜、九州に加えて日産車体の工場(湘南、九州)も必ず加えていました。日産車体は日産本体にとって「一蓮托生」の存在であるはずです。しかし、エスピノーサ氏の発言からはそうした思いは乏しかったように感じます。

工場整理、人員削減に動き出した日産、事業機能の再配置、跡地の処理、従業員の配置転換、転職支援などのフォロー……、やるべきことは山積しています。そんな日産にはたして復活はあるのか? 次回以降に譲ります。

(了)

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