長岡駅「越後長岡喜作瓣當」(1,050円)~駅弁屋さんの厨房ですよ!(vol.5「池田屋」編②)【ライター望月の駅弁膝栗毛】

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E129系

E129系・普通列車長岡行、信越本線・青海川~鯨波間

新潟の新しい車両、E129系電車。
朱鷺色のピンクと稲穂の黄金色の帯をまいて、2~4両のローカル列車として活躍しています。
平成26(2014)年から運行を始め、国鉄形の115系電車を順次置き換え中。
新潟は、新津(新潟市秋葉区)に車両工場があるため、電車も“地産地消”なのが特徴です。
まさに今、新時代を迎えていると言ってもいい新潟の鉄道です。

永橋ひかる

長岡駅弁・池田屋 永橋ひかる専務

そんな新潟で、新しい風を吹かせている駅弁屋さんがいます。
新潟第二の都市・長岡の玄関、長岡駅で駅弁を販売する「株式会社池田屋」です。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」の第5弾は、四代目の永橋晃(ながはし・あきら)社長と共に、老舗駅弁屋さんの舵取りを担う、永橋ひかる専務取締役にお話を伺いました。

●創業130周年の駅弁屋さん!

―池田屋は今年で「創業130周年」なんですね?

明治20(1887)年に、初代の永橋喜作(ながはし・きさく)が創業しました。
最初は鮮魚の仕出しから始まりました。
当時は信濃川の河川交通でしたから、川をさかのぼってきた舟から魚を仕入れたんです。
結婚式なども自宅で挙げていたので、そういう所へ「お造り」を持って行ったりしていました。

―そもそも「永橋家」なのに、なぜ「池田屋」なんですか?

よく皆さんに訊かれるんですが、全ては“喜作おじいちゃん”が、胸の内に秘めたまま旅立ってしまったんですよ。
唯一の由来と思われるものが、130年前から1着だけ残っている半被にあって、その背中の部分を見ると、既に「池」のマークがあるんです。
だから、「池」に繋がる何らかの理由があって、「池田屋」という屋号を付けたのではないかと・・・。
この辺りは空襲で一度焼けてしまっていますので、資料のようなものは残っていないんです。

―「永橋家」が構内営業に関わるようになったのは、いつ頃ですか?

2代目の時です。
昭和初期に国鉄の官舎の食事(賄い)を担当したことがきっかけで、戦後・昭和20年代に駅弁に参入しました。


●かつて3社が競合していた長岡駅弁

E2系

現在の上越新幹線の主力・E2系

―戦後、長岡駅弁を担ってこられて、最大の出来事って何ですか?

昭和57(1982)年の上越新幹線開業ですかね。
それと、ほくほく線の開業で、長岡始発の「かがやき」(注1)が無くなった時でしょうか。
やっぱりアレは、長岡としては大ダメージでした。
その頃、長岡には3社の駅弁屋さんがありましたから・・・。

(注1)「かがやき」
昭和63(1988)年~平成9(1997)年の9年間、長岡~金沢・福井間で走っていた特急列車。
上越新幹線「あさひ」(当時)と長岡駅で接続して、北陸地方への速達需要を担っていた。
平成9(1997)年のほくほく線開業で、その役目を特急「はくたか」に譲ったが、平成27(2015)年の北陸新幹線開業で、首都圏~北陸を結ぶ最も速い列車の列車名として復活を果たした。

―3社で駅弁を売っている駅って、全国でも、長岡と仙台くらいでしたよね?

そうです!
でも、平成16(2004)年の新潟県中越地震で、野本弁当部さんが工場がダメージを受けてしまって、廃業されてしまいました。
(2015年に)北陸新幹線が通るまでに、(長岡に)新工場を投資しても、回収は見込めないだろうという事情もあったといいます。
それから5年ほどで、長岡浩養軒さんも会社のご都合で止められてしまいました。

15年前の長岡駅弁

15年前の長岡駅弁(左から池田屋、右上・長岡浩養軒、右下・野本弁当部の駅弁、2002年撮影)

―駅弁屋さんが「3社」競合するって、やってる方としてはどうなんですか?

(☆永橋晃社長)3社あると、みんな自分の所の弁当を買ってほしくて、ホント一生懸命売ります。
3社あったほうが、モチベーションは高くなるんです。
でも、1社になると、欲しい人が買いに来るからいいじゃないかという発想に陥ってしまいやすい。
そうなったら売り上げが3倍になることはまず無くて、落ちるしかないんです。
だから、そういうことの無いようにやっていこう・・・それを社員みんなに言いながらやってきました。

(☆ひかる専務)お客様にとっても、3社あったほうが、駅弁を選べる幅が広くていいワケで・・・。
『今日はどっちにしようかな?』と(嬉しい)悩みが出来ます。
その意味でも1社になってしまうと、辛いものがありますよね。
そこへ来て、北陸新幹線開業で、特急「北越」(注2)も無くなってしまいましたから・・・。

(注2)「北越」
昭和44(1969)年~平成27(2015)年まで、金沢~新潟間を中心に運行されていた特急列車。
新潟~北陸の各都市間を結ぶ一方、長岡で上越新幹線と接続して、北陸方面への連絡も担い、「はくたか」を補完する列車の役割もあった。
北陸新幹線の開業に伴って廃止され、今は上越妙高で新幹線と接続する特急「しらゆき」にその役割を譲っている。

―その意味では、長岡駅弁が一番盛況だったのは、上越新幹線が開業して、北陸方面へ向かうお客さんが長岡で乗り換えていた15年間ということになるんでしょうか?

1本の列車に大体800人くらいのお客さんが乗っていらして、それが10往復あった訳ですからね。
(最近まで)それをよく実感していたのが、「はくたか」が長岡発着になった時です。
ほくほく線開業後も、災害などがあって「はくたか」が長岡発着になることがありましたから。
ある年は、これと(夏の)長岡まつりがぶつかりまして、もう訳が分からないくらい人が来るんです。
だから、「はくたか」が長岡発着になると分かると、それを見越して弁当を多めに準備しておくようにしていました。
(永橋ひかる専務インタビュー、次回に続く)

池田屋の人気駅弁

池田屋の人気駅弁

越後長岡喜作瓣當

越後長岡喜作瓣當

今、「池田屋」の駅弁で、一番人気を誇るのが「越後長岡喜作瓣當」(1,050円)!
平成19(2007)年発売で、JR20周年&池田屋創業120周年を記念して作られました。
「喜作」の名は、インタビューにも登場した「池田屋」の創業者、永橋喜作氏の名に由来します。
掛け紙には、長岡には老舗のお店だけにあるという、明治時代に彫った店の版画を使用。
永橋晃社長が、新作駅弁を開発するにあたり、「喜んで作る」ってこんなに素晴らしい名前は無いんじゃないかということで、「どうしてもコレで行きたい!」とネーミングしたといいます。

越後長岡喜作瓣當

越後長岡喜作瓣當

【お品書き】
ご飯(長岡産コシヒカリ)
神楽南蛮鶏団子
塩鮭
玉子焼き
金平蓮根
油揚げとぜんまい煮
なすと生姜の味噌漬
椎茸煮
梅干し
笹団子

地元産の白飯と地元ゆかりのおかずが少量ずつ、たっぷり入った幕の内系駅弁です。
永橋ひかる専務によると、ちょうどこの頃、「ロハス」や「地産地消」という言葉が流行っていたこともあり、とことんロハスと地産地消に、限界まで挑戦しようと思って作ったといいます。
最初はがんもを使うなどしていましたが、安全性の面などから、長岡野菜の神楽南蛮を使った鶏団子などにリニューアルしたりして、今の形になっているそうです。

越後長岡喜作瓣當

越後長岡喜作瓣當

茄子と生姜の味噌漬けは、天保二年創業、柏崎の老舗「越後みそ西」のものを使用。
油揚げとぜんまい煮では、長岡の創業90年の豆腐屋さん「吉田屋」の油揚げを使っています。
量を抑えめにしているのは、「大人の休日倶楽部」世代のお客さんを中心に「量はいらない、美味しいものを食べたい!」という声をたくさんいただいたからなんだそう。
最初は3ヶ月限定くらいのノリで作ったそうですが、思いのほか中高年以外にも、ビジネスの方や幅広い世代にヒットして、いつの間にか「10歳」を迎えることが出来たということです。
売店では『ホラ、カサクだっけ、ヨサクだっけ、アレちょうだい!』と指名買いをする人も多いとか。
「○作という名前と共に、駅弁が印象に残って下さっているのは有難い」と永橋専務は話します。
望月も長岡で駅弁を選ぶなら、まずは『キサク』が第一候補です。

特急「北越」

485系・特急「北越」(2014年撮影)

10数年前まで、3社が競合していた長岡駅弁。
しかし、天災や時代の流れで、今は「池田屋」1社のみとなってしまいました。
さらに、北陸新幹線の開業で特急が廃止され、厳しい状況に置かれている長岡駅弁。
この状況をどうやって乗り切っているのか?
そして、未来へどんな新しい風を吹き込もうとしているのか?
次回以降をお楽しみに!

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

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